暴力は嫌いだと言いながら、それを求める現代人の心の裏側

暴力は嫌いだと言いながら、それを求める現代人の心の裏側
日本人は戦後70年、牙を抜かれて闘争本能さえも失ってしまった経緯がある。(ダークネス:戦後70年以上、日本人は「闘争本能」を封印され続けてきた

しかし、それで日本人は永遠に腑抜けな民族になったわけではない。闘争本能はいつでも取り戻すことができる。なぜなら、闘争本能は人間の内面の深い部分にあって、取り除くことができないものだからである。

闘争本能は自らの存続を賭けて生き残る必要がある時、怒りや暴力と共に噴き出していく。

人は互いに愛し合う。人は愛情や友情がなくては生きていけない。人は優しさがなければ耐えられない。だから、多くの人が愛を求めてさまよい続ける。

しかし、一方で人は暴力を捨てられないという矛盾した性格を持つ。ひとりの人間の中に、愛と暴力が共存している。

人間が暴力を持つのは、暴力がなければ生存できない古代からの歴史が遺伝子に染みついているからだ。かつては獲物を採るにも暴力が必要だった。自分が肉食獣のエサにならないためにも否が応でも戦う必要があった。

生き延びるために暴力を必要としていた。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

暴力に対する渇望が秘められて、それを隠せない?

暴力を否定するのはまっとうな社会人としては当然だ。それは人間社会ではあってはならないものだ。実社会で暴力行為があれば、それは法律で厳しく罰せられる。

暴力はいけないという教育が為され、暴力は人間社会から排除される。子供の頃から、暴力は振るってはいけないと厳しくしつけられる。

ところが、いくら社会が否定しても人間の本能の奥深くに暴力に対する渇望が秘められていて、それが隠せない。

「暴力なんてとんでもない。自分は暴力を求めていない」と固く信じている人も、実は無縁ではないかもしれない。

たとえば、私たちは闘争心を剥き出しにしたゲームを見て楽しんでいたり、人が大量に死んでいく映画を喜んで見たりしている。ゲームでシューティング物があるのは、自らの感情の中の暴力性を刺激されるからだ。

自分ではそれが暴力の代償行為であると気付いていないかもしれない。しかし、それは紛れもなく暴力の発散なのである。

映画やドラマや小説や漫画やゲームなどのコンテンツは、暴力シーンを扱えば売り上げが上がる。

だから、映画でもアクション物という名の「暴力物」や、ホラーという名の「暴力物」や、警察物という名の「暴力物」や、戦争物という名の「暴力物」や、SF物という「暴力物」や、ヒーロー物という「暴力物」で溢れている。

正義の見方が悪漢を銃で撃ち殺す「暴力の物語」が繰り返し反芻されるのは、人は「どうしようもない人間が暴力的に抹殺されるのが嬉しい」からだ。

「いや、私は暴力的なゲームもしないし、暴力的な映画も嫌いだから見ない」という人もいる。しかし、その人がそうであったとしても、そうでない人が膨大に存在していることは否定できない現実でもある。

ここが問題なのだ。自分がそうでなくても、自分のまわりには暴力に対する渇望を心の奥底に秘めた人々が大勢存在するのである。

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暴力を見たいから、スポーツに大きな需要がある

スポーツにも、暴力がとても直接的に取り入れられている。たとえば、ボクシングやプロレスや格闘技は、コントロールされているとは言えども暴力そのものだ。

ボクシングや格闘技は、相手を殴りつけて勝敗を決める残酷なものである。ボクシングはスポーツであるが、同時に暴力行為でもある。

しかし、ルールを決めて行っているのだからそれはいいと人々は無意識に思う。そこにまぎれもなく暴力があるというのは奇妙なことに、人々の頭からすっぽりと抜けている。

野球やサッカーやラグビーやアメリカン・フットボールやホッケーでさえも、暴力が隠されている。

人間が本当に暴力が嫌いだと思っているのであれば、スポーツは絶対に流行しない。心の裏側に暴力を見たいから、暴力がベースになっているスポーツを見る。

どう見ても、スポーツは暴力の代用か、暴力そのものであり、それを見て人間は喜んでいる。

暴力を描写する映画から、暴力を描写するゲーム、そして暴力そのものを表現するスポーツは、人類の巨大な「娯楽」であり、それなしには文明が成り立たない。

暴力は文化に織り込まれている。

そういった世の中の実態をひとつひとつていねいに、きちんと見ていけば、人間は、愛と同じくらい暴力を必要としていることが観察できるはずだ。

暴力の渇望は、まさに本能レベルで刷り込まれており、それがゆえにどんなに社会が躍起になっても、世の中から暴力が消えることがない。

暴力は嫌いだと言いながら、それを求める現代人の心の裏側を見つめるべきだ。

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暴力が明確に否定されるのは人間が暴力的だからだ

これだけ暴力が否定されている世の中なのに、この世から暴力がなくならない。それは個人であっても国であっても同様だ。

治安の良い先進国でも警察は必要だ。なぜなら、間違いなく社会のどこかで暴力事件が発生するからだ。日本は世界でもトップクラスの安全な国だが、その日本でも警察は存在する。

人間社会で戦争がなかった時代はないし、平和な時代であっても、絶えず細かい紛争や集団暴力が発生している。

アメリカのように、戦争に次ぐ戦争で歴史を紡いでいるような国すらもある。(ブラックアジア:「自由はただではない」という言葉の裏には何があるのか?

中東やアフリカも、古代から現代まで歴史を見ると血まみれで推移している。南米も同じだ。南米は戦争が起きていないが、信じがたいまでの治安悪化で暴力が蔓延している。

人間の社会というのは、いつの時代でもどこの国でも、間違いなく暴力が存在する。暴力が明確に否定されるのは「実は人間が暴力的だからだ」と気付かなければならない。

建前がどうであれ、現実にはそうなのだ。

だから、軍を持たない国はないし、警察組織を持たない国もない。暴力が存在するから暴力を取り締まる機関を社会は必要としている。

それぞれの国は、自国が侵略されないように、武力の保持に力を割いている。人間の歴史は戦争の歴史である以上、武力がなければ滅ぼされる。当たり前のことだ。

もちろん、日本を取り巻く状況も例外ではない。

全世界に暴力が満ち溢れている以上、日本もきちんと武力を持ち、侵略という暴力に対しては攻撃という暴力で対応しなければならないのが現実であると全国民が知るべきだ。

生き延びるためには闘争本能を持たなければならず、暴力の完全否定も間違っていることを、政府は日本国民に周知し、きちんと教育すべきである。

きれい事ばかり言っても生き残れない。(written by 鈴木傾城)

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生き延びるためには闘争本能を持たなければならず、暴力の完全否定も間違っていることを、政府は日本国民に周知し、きちんと教育すべきである。きれい事ばかり言っても生き残れない。

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