このままでは、フェイスブックは存続の危機に追い込まれる

このままでは、フェイスブックは存続の危機に追い込まれる

日本ではあまり報道されないが、欧米ではフェイスブックがSNSの闇(ダークサイド)とも言うべき様々な問題でがんじがらめになって、今後の存続を賭けた危うい正念場に立たされようとしている。

フェイスブックは実名で多くの人々を取り込んで来た。その結果として起きたのは、主義主張を異とする人々との間の激しく妥協のない闘争であり、飛び交うヘイトスピーチであり、真実をねじ曲げたフェイクニュースの蔓延だ。

フェイスブックは友達や家族をインターネット内で密接につなげたのと同時に、自分が激しく嫌うタイプをも密接に結びつけた。それによって場が殺伐とするようになっていた。

フェイスブックは広告収入で巨大企業と化したのだが、この広告においても、「ユダヤ人は嫌いだ」「黒人は劣等民族だ」等の主張する人々の書き込みにターゲット広告が表示されるようなことになって広告主が激怒している。

さらにロシアがフェイスブックのアカウントで組織的にフェイクニュースを垂れ流し、それが大統領選挙にまで影響するような事態をも招いている。

多種多様な憎悪、数々の言葉の暴力、フェイクニュースが、フェイスブックで蔓延し、フェイスブックは人々をつなげたことによって起きているダークサイドの拡大を止めることができないでもがいている。このまま手を打てなければ、フェイスブックは存続の危機にまで追い込まれる。(鈴木傾城)

プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

そこから逃れたいと人は考えるようになる

今後、スマートフォンの位置情報サービスやSNSの機能は、さらに高度に発達していくようになる。しかし、多くの人間がつながればつながるほど混乱は拡大する。

主義主張の違う人間から絶えず口論や攻撃や異見や中傷を受け、親しい人たちからも監視されるようなつながりとなり、さらにはフェイクニュースまで蔓延する場となった。そこに心地良さを感じる人はいない。

そのため、すでにフェイスブックで強制的につながってしまうことを嫌う人たちがフェイスブックから離脱するような動きになっている。

フェイスブックがそれをうまく改善できないとどうなるのか。

まだ信じられないかもしれないが、そのうちに人々は「つながらない」ことに喜びを見出すことになる。つながらない場所、つながりを逆に切ってくれるサービスに殺到するようになる。

本当のことを言えば、公私問わず人と過度につながるというのは非常にわずらわしいことである。そこには義務が発生し、義理が発生する。

また、つながるというのは、他人に自分を監視させるということでもある。常に他人に見られ、ゆるやかな監視を受ける。自分の自由を束縛されることになるのだ。

つながる喜びよりも、束縛される苦痛の方が上回っていくと、当たり前だがそこから逃れたいと思う人は増えるのだ。

だから、過度に他人とつながってしまうネットワーク社会では、逆に「つながらない自由」も重視されるようになっていく。

そもそも、人間は自分の人生を生きるのに精一杯であり、日々の生活に疲れもある。そんなときに、自分とつながっているそれほど親しくない人間の一挙一動を知りたいなどと思わない。

また、常に自分の発言に弁解や説明をしたいとも思わない。

「つながる」というのは、ほどほどが重要なのであって、私生活を侵食されるほどのつながりを求められるフェイスブックは、人々の負担となっていった。

 

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孤独になることによって自由を得ることができる

現代人は孤独を嫌うが、これだけ「つながり」が求められるようになっていくと、逆に孤独であることの重要さも再評価される時代が急速にやってくる。

人間は社会的な動物なので、本来は孤独であるというのは危険なことである。孤独であると、押しつぶされるような寂しさに覆われて、自分が見捨てられたような惨めな気持ちを誘発することもある。

それを知っているからこそ人間は孤独を恐れ、誰でもいいからつながろうと躍起になる。そうやってもがいている現代人に与えられたツールがSNSであり、その代表としてのフェイスブックだった。

孤独でどうしようもなかった人が、簡単に孤独から逃れられるひとつの方法として爆発的に広がって、フェイスブックは急激に巨大企業となって世界を制覇した。

人々は容易につながれるようになったのだが、その結果として得たのは「つながりから逃れられない社会」だった。

フェイスブックはあまりにも莫大なユーザーを集め、さらに効率的に人々をつなげてしまい、人々は「つながり」から逃れられなくなってしまった。

親しい人たちに、まるで一挙一動を監視されるような濃密な「つながり」が発生し、自分の一語一句が残り続け、過去からの決別もできなくなってしまった。

フェイスブックはあまりにもそれを効率的にやり過ぎた。つながりすぎて、それが束縛となった。だから、人々はフェイスブックを次第に敬遠するようになっている。

孤独であることが重要なこともあるというのは、どういうことなのか。

孤独であるというのは、逆の見方をすると他人の束縛を受けていないということである。他人の束縛を受けない状態のことを、人は「自由」と呼ぶ。

今後、フェイスブックから逃れることが「自由を取り戻す」と言われる時代が来ても不思議ではない。実際、欧米ではそのように言う若者も増えている。

 

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つながりを拒絶する新しい動きさえも起きている

かつての社会は、農村の村社会で成り立っていたので、村の濃密な人間関係(つながり)に耐えられなくなったり、そこから排除されてしまった人は、生きていけなかった。

村八分というのは、葬式と火事以外のすべてから断絶するという行為だが、村でつながりを断ち切られるというのは社会的に死んでしまうも同然だったのだ。

人間関係の束縛の中で人は自由を失っていった。

これと同じことがインターネットでも起きた。フェイスブックは村社会のように、インターネットの世界を閉塞して息苦しい「束縛の世界」にしてしまった。

四六時中、「知り合い」という名の監視者に見張られ、つながってしまった人たちにレスポンスを求められ、義理と義務を強制される世界となった。

人々はそんな世界を求めていたわけではないのに、いつの間にかフェイスブックはそのような世界を作り上げていた。それを知らずに人々は絡み取られ、ワナにはまってしまった。

他人と簡単につながることができるというのは、孤独を嫌う現代人にとって大きなメリットである。だからこそ、フェイスブックは熱烈に支持されてきた。メリットは非常に大きく、そして劇的だった。

しかし、フェイスブックは人々を過度につなげてしまい、人々の心を疲弊させていく道具と化した。

そこに、つながってしまった誰かが意図的にフェイクニュースを垂れ流すようになって、何が真実で何がフェイクなのかも疑わなければならないような難儀な世界を作り出した。

だから、つながりを強制するインターネット社会の中で、逆につながりを公然と拒絶する新しい動きさえも起きている。そのうち「つながり」という言葉は、ネガティブな意味にひっくり返されて使われることになっても不思議ではない。

フェイスブックは、今そうした世の中の変化の中で追い詰められようとしている。「つながり」を取り巻くいくつもの問題を排除することに失敗したら、フェイスブックはその事業に大きな問題を抱えることになる。(written by 鈴木傾城)

 

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フェイスブックは、今そうした世の中の変化の中で追い詰められようとしている。「つながり」を取り巻くいくつもの問題を排除することに失敗したら、フェイスブックはその事業に大きな問題を抱えることになる。

 

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