次の時代には、荒々しくも力強い今までとは別種のタイプの日本人が必要だ

次の時代には、荒々しくも力強い今までとは別種のタイプの日本人が必要だ

日本で生きるのに、「不屈の精神力」は要らなくなったのだ。それが顕在化したのが1980年代以降だった。この頃になると、GHQが仕掛けた「戦争できない日本人」の戦後教育も行き届き、日本人すっかり人畜無害になり、やがては草食動物に喩えられるくらい無欲に仕立て上げられていた。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019メディア『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

泥をすすっても生き残ること、へこたれないこと

1945年。日本全土が灰燼と化して、もはや日本は終わったと世界中の誰もが思った。ところが、日本人はそれから猛烈な勢いで働き始め、国を立て直し、奇跡の高度成長を遂げた。

東京・大阪・名古屋を含めた主要都市が空爆によってガレキの山と化し、広島と長崎は原子爆弾で壊滅状態になったのだが、1956年には「もはや戦後ではない」と経済白書で宣言するほどになっていた。日本は不死鳥の如く蘇った。

すべてを破壊された国が、たった10年ほどで「もはや戦後ではない」と言っているのだ。客観的に見ても、それがどれほど凄まじい復興スピードとエネルギーだったのかが分かる。

原爆が投下されて「もはや人間の住む場所ではなくなった」と言われた広島や長崎でさえも、苦難から復興していた。

もちろん、社会的に見れば様々な僥倖が日本にあったことも事実だが、その前に何もかも失った日本人がアグレッシブに働き、日本を立て直したというのは誇るべきだ。

これが日本人の気質であり、国民性だったのだ。この気質がなければ、日本は復興できなかった。泥をすすっても生き残ること、へこたれないこと、窮地でも生き延びることを、この頃の日本人は持ち合わせていた。

この頃の日本人はまだ「荒々しさ」を持っていた。欲しいものをつかみ取りたいというギラギラとした一徹なバイタリティーを持っていた。「根性」を見せないと生きていけないという共通認識があった。

優しい日本人もいただろうが、優しい「だけ」では生きていけない時代だったので、誰もが猛烈な気概を持ち合わせて泥臭く生きていたのだ。それが時代のエネルギーとなって爆発し、高度成長期の活性を生み出していた。

戦後の日本はそういう時代だった。

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何でもある時代が、不屈の生命力を喪失させた

ところが、これほどまで高度成長した日本も、1980年代になると徐々にハングリーさを見失うようになった。ギラギラとした燃えるような目で目標に向かって邁進する日本人が少しずつ消えていった。

1970年代以降に生まれた日本人は、もう生まれたときから「欲しいものが何でもある」ような時代になっていたのだ。がむしゃらにならなくても、モーレツにならなくても、何か欲しいと思ったら親が何でも与えてくれた。

終戦後の混乱した時代を知る親世代は、自分が子供時代に欲しいものが何も手に入らなかった悔しさを知っている。せめて自分の子供は、悔しい思いをしないですくすくと素直に育って欲しいと願ったのだ。

折しも日本は一億総中流時代に入っており、よほどの贅沢をしなければ子供が欲しいと思うものくらいは買い与えてあげることができるようになっていた。

そして、どうなったのか。世界からエコノミック・アニマルと呼ばれて恐れられたり、呆れられたりしていた日本人の質が明らかに変わっていった。若者からギラギラとした生命力が消えて軟弱化した。

耐える力も、継続する力も、感動する力も少しずつ消えていった。こうした日本人の変化に警鐘を鳴らす人も当時から多かったが、この流れは止まることはなかった。

結局、シラケ世代だとか無気力世代だとか言われるような、かつてのエコノミック・アニマルと言われた日本人とは真逆の世代が生まれるようになっていった。

「必死で欲しいものをつかみ取る」「死にもの狂いで何かに打ち込む」というのは、古い世代の生き方であると否定される場面さえも出てきた。

そういった空気が日本を覆い尽くすのようになっていった。日本で生きるのに、「不屈の精神力」は要らなくなったのだ。それが顕在化したのが1980年代以降だった。

この頃になると、GHQが仕掛けた「戦争できない日本人」の戦後教育も行き届き、日本人すっかり人畜無害になり、やがては草食動物に喩えられるくらい無欲に仕立て上げられていた。

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頑張るという教育は受けていないし、必要なかった

日本は1980年代後半にバブルの時代を経験している。それが盛大に吹き飛んだのが1990年からである。ここから日本の経済的な縮小が始まったのだが、同時に日本人の精神的な弱体化も目に見えるようになっていた。

いつまでも親に寄生して、自立しようとしない、自立ができない依存体質の若者もこの頃から発生している。親にパラサイト(寄生)して自立を求めなくなった。

やがて2000年にもなると、日本企業が構造的に変質して終身雇用を徐々に捨てるようになった。特に、若者を正社員で採用しなくなっていった。

それが若者の将来設計を破壊して、彼らの一部は親の家に引きこもるようになっていく。自立どころか、部屋から出ないで生きるようになっていくのだ。

彼らは、もともと生まれた時から何でもあって、欲しいものは親が与えてくれる環境にあった。何も無理して頑張る必要はなかった。不屈であることは重要視されていないし、そういったものを求める社会でもなかった。

弱い存在であっても、親が助けてくれる、社会が助けてくれる、国が助けてくれるという意識が根底にあり、自らもがいて自分を助けるよりも、他人に助けてもらえるまで何もしないようになったのだ。

この流れは、後しばらくは続くかもしれない。しかし最近、再び時代は変わりつつあるのではないかという兆候も生まれている。社会が過酷化するにつれて、「優しいだけ」の若者とは違う荒々しい日本人がやっと復活しつつある。

資本主義は弱肉強食化して、格差と貧困の社会がやってきている。グローバル化の時代はさらに加速するので、競争は世界規模になり、ますます時代が過酷になることは分かっている。

国内情勢を見ても、少子高齢化で国力が減退し、高齢者が増え、社会保障費の増大に歯止めをかけたい政府が、ゆっくりと確実に福祉や医療費を削減するようになって、「自分の面倒は自分でみろ」と国民を突き放している。

誰も助けてくれない、誰も助けられない、社会がそのように構造的変化しつつある中で、まるで時代の過酷さに呼応するかのように、ギラギラとした目で社会の矛盾に激しい言葉で声を上げる若者が一部で出てきたのだ。

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荒々しい日本人が登場するのは、むしろ時代の必然だ

再び、死に物狂いで生き残る生命力が必要になる時が到来しつつあり、それをを肌感覚で受け止める若者が出てくるようになっている。SNS内でもストリートでも、言いたいことを過激に叫ぶ若者の姿は、草食だとか内気だとか言われている若者とは明らかに違って興味深い。

生まれながらにして何でも手に入る温室環境であれば、強い生命力など必要ない。温室でぬくぬくと育って一生を終えることができる。

しかし、温室が消えて過酷な環境になったなら、過酷な環境に合わせて雑草のように踏まれても生きられるようにしなければならない。踏まれても起き上がってくる生命力が必要だ。

少子高齢化による国力の低下がより鮮明化して貧困が拡大していけば、日本人の次の世代は「何が何でも生き延びてやる」という生命力を身につけなければ生きていけない時代がやってくる。否が応でも、それが必要になる。

戦後の平和な時代は永遠に続くものではなかった。それは間もなく終わる。バブル崩壊以後、日本の社会環境はゆっくりと厳しいものになっていったのだが、これから起きる貧困と激動はその比ではない。

平和も平等も消える。対立と衝突がやってくる。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる時代、憎悪が剥き出しになった時代が次の時代である。「愛だ、平和だ、平和憲法だ」と言っていれば平和でいられるわけがないのだ。

中国・韓国・北朝鮮との反目も激しくなってきており、うかうかしていると侵略されかねないような状況も出てきている。

そんな中で、日本人もまた徐々に「草食」を捨てて攻撃性を取り戻しつつあるのだ。かつての日本人が持ち合わせていた荒々しく、ギラギラとした攻撃性をやっと日本人は取り戻しつつある。

打たれても負けず、叩きのめされても潰れず、まわりを敵に回しても挫けない強い精神力と生命力を持つマスコミに迎合しない若者も登場してきている。日本の温室的環境が終わったのだから、それは悪い話ではない。

荒々しい日本人が登場するのは、むしろ時代の必然のようにも見える。この闘争本能を取り戻した日本人の登場が日本を変えていく。

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