
株式や不動産の値上がり分を含み益として認識し、それを信用力やキャッシュに変えることで、金持ちは高額消費を継続的に増やすことが可能になる。経済学者ガルブレイスはこれを横領(embezzlement)という言葉から派生させて「bezzle(ベズル)」と呼んだ。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com
上位10%が消費の半分を独占する衝撃的な現状
現在のアメリカでは、所得上位10%の高所得者層が国内消費支出全体の約49.7%を占めている。この数字は30年前には36%程度だった。それを考えると、富の偏在はますます強まっていることがわかる。
株式市場と不動産市場が長期で上昇したことにより、高所得者層の可処分所得と資産価値も急速に膨れ上がった。その結果、これら高所得者層は日常的な消費や贅沢品の購入だけでなく、大規模な投資や高額資産の取得を通じて、アメリカ全体の消費を牽引する役割を担うようになった。
そして、人口の一部である上位10%が国の経済活動の半分近くを事実上支配する構造ができあがった。考えてみると、すさまじい経済的不均衡だ。
たしかに、下位所得層の支出も絶対額としては小さくない。だが、株式や不動産を中心とする資産価格の上昇によって高所得者層の購買力は加速度的に高まって、所得層間の差は決定的に広がっている。
弱肉強食の資本主義とはそういうものだ。金持ちはますます金持ちになるので、資本格差は広がっていくばかりと化す。そして、富が極限まで偏在するようなことになっているのだ。
これはまさに、資本主義の「ゆがみ」と言っても過言ではない。
アメリカは、伝統的に「消費社会」である。それ事態は数十年前から変わっていない。しかし、消費者の内訳が変わった。株式や不動産への投資によって収益や資産担保を得た高所得者層は、非常に羽振りが良い。
だから、現在は10%の高所得者層がカネを使いまくって消費は成り立っていたのだ。その一方で、中間層以下の実質所得が伸び悩んでいる。今のアメリカでは高所得者層とその他の層のあいだで、消費の質と量に大きな隔たりが生じている。
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ガルブレイスの言う「ベズル」とは何か?
米国において高所得者層が全消費の約半分を占めるようになった背景には、1980年代から続く所得格差の拡大がある。
レーガン政権時代の減税政策や金融規制緩和、そしてグローバル化による企業収益の増大が組み合わさり、高所得者層は大きな資本利得を手にするようになった。それ以後も、高所得者層は株式市場での利益獲得に加え、1990年代のITバブル期には先端技術への投資が巨額のリターンをもたらした。
インターネット革命の波に乗った企業の株価上昇は、超富裕層の誕生を促進する要因となった。このような流れの中で、株式や不動産の価値が高水準で推移し、高所得者層の購買力は強化され続けている。
不動産市場においては、低金利政策と高所得者向けの融資拡大が、高級住宅や投資用不動産の取得をより容易にした。これにより、さらなる資産拡大の好循環が生まれた。限られた層が歴史的に見ても例外的な経済的優位性を持つことで、消費全体の大きな部分を支配する構図が定着したのだ。
高所得者層による消費支出の拡大を理解する上で重要なのが、ジョン・ケネス・ガルブレイスの言う「ベズル(bezzle)」という考え方である。これは、実体経済の成長や生産性向上を超えてバブル化した資産価格が、まるで本物の富であるかのように扱われる状態を指している。
株式や不動産の値上がり分を含み益として認識し、それを信用力やキャッシュに変えることで、金持ちは高額消費を継続的に増やすことが可能になる。わかりやすく言うと、バブルの泡の部分を現金化されたものがベズルである。
バブルの泡の部分は実態に即さない見せかけの含み益である。それを現金化して消費しまくるわけで、経済学者ガルブレイスはこれを横領(embezzlement)という言葉から派生させて「bezzle(ベズル)」と呼んだ。
投資家チャーリー・マンガーも現在の米国富裕層の馬鹿げたカネの浪費を軽蔑し、それを「ベズル」だと述べて距離を置いていた。
だが、超富裕層の消費拡大はより顕著になっているのが現代の姿であり、ベズルによる資産膨張が高所得者層の支出を押し上げている。振り返ると、現代社会は「ベズル」に支えられている異常な世界なのだ。
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高所得者層は金融によって富を膨れ上がらせた
上位10%の高所得者層は、言うまでもなく労働ではなく、金融によって富を膨れ上がらせてきた。金融資本主義の拡大とグローバル化による構造的変化が彼らを生み出したと言ってもいい。
アメリカの金融部門は1980年代以降、M&A、証券化商品、デリバティブ取引などを活用して大きく成長し、金融市場にアクセスした人々が富を蓄積する仕組みが確立されていった。
FRB(連邦準備銀行)による低金利政策や量的緩和策を巧みに利用すると、金融で莫大な富を築き上げるスキームが生まれる。低金利は資産価格の上昇を促進させ、投資家や高所得者層が所有する株式や不動産を継続的に値上がりさせる。
企業経営も株主価値の最大化を重視する方向に変化し、自社株買いや高配当政策によって高所得者層の資本利得をさらに増やす状況となった。このような経済モデルが続く限り、彼らが多額の資金を市場に投入して資産を増やす構図はずっと続く。
一方、グローバル化は国内の中間層以下の雇用や所得には厳しい影響を与えた。
生産拠点の海外移転やコスト削減策によって企業の株価が上昇すると、それを保有する高所得者層の収益は拡大するが、国内の製造業やサービス業で働く労働者は相対的に取り残される形となる。
高度な教育やスキルを持つエリート層は、テクノロジー企業や金融業界での高額報酬やストックオプションによって資産を増やし、消費を主導する位置を確立した。これに対し、中間層や低所得層は実質賃金の停滞や不安定な雇用に直面し、消費に占める割合が減少していった。
教育格差が固定化される中、高所得者層の子供たちは一流大学に進学して好条件の職に就き、株式や不動産を取得しやすい環境に恵まれる。貧困層の子供たちは、学費の高い大学には入学することもままならない。
こうした社会構造全体が、上位10%による消費の支配を常態化させ、富の集中と消費格差をさらに拡大させる土壌となっている。
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好きになる必要はないが、利用する価値はある
こうした現状を見て、私たちは何を考えればいいのか。結局のところ、「金融」が現代の弱肉強食の資本主義の正体であるならば、私たちもその「金融」を利用するしか生き残る道はないということなのだ。
高所得者層の支出に依存する現在の経済は、株式や不動産などの資産価格の継続的な上昇を前提として成り立っている。これは米国だけではない。全世界で共通する社会構造である。もちろん、日本でもそうだ。
まじめに働くのも重要なのだが、それだけでは足りず、結果的に「金融」を利用した人間が生き残れるようになっている。
私自身はこういう社会のあり方に非常に疑問を持っており、今の社会の光景と不均衡には吐き気すらも覚えている。貧困層を爆発的に生み出して貧困を固定化させ、高所得者層がどこまでも超絶的に富を蓄積していく。そんな社会を見て、好ましいなどと思う人などひとりもいないはずだ。
しかし、私たちはこの薄気味悪い資本主義を生き延びなければならないわけで、生き延びるのであれば、私たち自身も「金融」を自分なりに利用するしかない。
驚くべきことに、私自身はこれだけ今の弱肉強食の資本主義を嫌っているのだが、「金融」を利用したことによって富裕層に属するレベルの資産を保有するところにまで資産が膨れ上がってしまっている。
私自身は、社会の裏側をふらふらと生きている人間に過ぎないので、この資産はすべて金融が生み出した「ベズル」であると認識している。そのため、こんなものを下らない贅沢三昧に使おうなど思ったことは一度もない。
だが、金融が私たちを選別してくるのであれば、その金融を理解し、それを自分の生活防衛や資産形成に「利用」することは生存のための現実的な選択肢である。私はそのことを身に染みて感じている。
今は、経済格差が激烈なまでに開き、政府も国民を助ける意志と能力がなく、他人も経済的に誰も助けてくれない社会なのだ。それならば、「金融」だろうが何だろうが、利用できるものは利用したほうが最終的には得する。
金融や投資を好きになる必要はないが、利用する価値はある。
