新聞社もウェブサイトを持っている。それは莫大なページビューを集めているわけで、「ニュースを提供する」という根幹に問題があるわけではない。
問題は、新聞社がインターネットでは紙媒体と同じレベルで儲けることができないというところにある。
紙は捨てられてインターネットが主流になっている。だから、どうしても新聞社もインターネットに注力するしかない。
しかし、肝心のインターネットの方では収益が思うように上がらずに、新聞会社はその規模を保つことができなくなってしまったのだ。
その結果、収益の悪化と共に記者の賃金の低下やリストラが起きてクオリティすらも保つことが不可能になりつつあるのが今の新聞社の現状だ。
どのみち紙媒体は捨てられていくので、すべての情報産業は電子媒体、すなわちインターネット専業になるしかない運命にある。しかし、紙媒体と同じ規模では儲からないので、新聞会社は今の規模を維持できない。単純な話だ。(鈴木傾城)
時代は変わった。紙の印刷物の時代は終わったのだ
紙の新聞は情報が遅く、古く、かさばり、1日経てば、すぐにゴミになっていく。しかも、紙媒体ではリンクによる広がりも期待できず、動画にアクセスすることもできない。さらに、多くの新聞はいまだに白黒である。
それでも記事の品質が素晴らしければ需要はある。しかし最近の新聞は朝日新聞や毎日新聞を見ても分かる通り、捏造とフェイクと偏向と反日のオンパレードである。
たとえば朝日新聞は、珊瑚を自ら傷つけて「日本人の尊厳がなくなった」と自作自演したのがバレたり、南京大虐殺の捏造を報じ続けたり、慰安婦が強制連行されて性奴隷にされたという捏造を流したりしていた。
あるいは、郵政反対派会談を捏造したり、北朝鮮のミサイルを「一発だけなら誤射かもしれない」と言ってみたり、「日本人をボコボコにした」と自慢げに本に書く薄気味悪い在日韓国人の記者を雇ってみたり、やりたい放題やっている。
これだけやりたい放題やって、朝日新聞を批判するジャーナリストがいたら、今度はそのジャーナリストに向かって「朝日新聞の名誉を汚した、謝罪と賠償しろ」と恫喝して言論封鎖する始末だ。
こんなことばかりしているので、国会議員にも「朝日新聞死ね」と言われるようになっているのだが、これで売上が爆発的に回復するはずもない。
そんなわけで、学生すらも朝日新聞みたいな会社に入社したくないと避けている。「マスゴミ」と嘲笑われている会社に誰が入りたいというのか。反日の人間以外は、誰もこんな会社に関わりたくない。
紙の印刷物はすでに時代遅れになっているのに、記事の内容もゴミなのであれば、もはやその存続は絶望的だ。朝日新聞のみならず、多くの新聞社がそうなのである。
そうであれば、紙の新聞に売上を依存している新聞社が生き残れるはずがない。時代は変わったのだ。すべてに関して、インターネットの方が勝っている。どのようにあがいても、紙の印刷媒体は淘汰されていくことになる。
もう勝負はついている。
やがて、組織が維持できない臨界点にまで到達する
しかし、紙の印刷物は相変わらず残るのも事実だ。世の中がどんどん変わっていっても、一定数で時代に取り残される人がいるからだ。
いつの時代でもそうだ。すべての人間が器用に新しい現象に乗れるとは限らない。たとえ、誰が見ても「それは淘汰されていく」と分かっても古いものから離れられない人がいる。
明治から大正・昭和に時代が変わるときも、着物を着ていた人が翌日からすぐに洋服に切り替わったわけではない。若者は比較的早く洋服に切り替わったが、老人はずっと着物を着ていた。1960年代でも、まだ着物しか着ない人もいた。
長い共存時代があって、徐々に着物を着ている人は淘汰されていったが、どうしても洋服が嫌だという人は多かったのだ。
現代も同じことが起きている。インターネットがこれだけ主流になっていっても、どうしても紙媒体にこだわる企業と、紙媒体にこだわる読者が残る。
インターネットがどんなに便利だとは言っても、紙でないと嫌だという人が一定数は残るのだ。
しかし、読者が減るので制作側は事業が存続できないところにまで追い込まれていく。座して死ぬわけにはいかないので、業界は最後まで抗う。
しかし、世の中に抗うというのは、それこそ毎日が逆風の中で生きるということでもあり、とても苦しい世界でもある。やがて、組織として維持できない臨界点にまで到達する。
そうすると、印刷物はポツリポツリと休刊や廃刊に追い込まれ、やがて印刷物は提供されなくなって、インターネットでしか読めるものがなくなっていく。
そうなると、取り残された人たちも、ゆっくりとどこかの段階でいつしか切り替わっていく。
印刷物としての新聞がそうなりつつある。だから、新聞社が凋落するニュースが、それこそ毎年のように繰り返し繰り返し現れているのである。
それでも、新聞社は世の中に抗い続けて、かつての栄光が何とか戻らないかと必死で努力している。結論から言うと、もう紙媒体でいくら努力しても栄光は戻らない。
自分自身をデジタル化に適応させなければならない
印刷物は文化であり、印刷物は文化資産である。だから、文化資産としての印刷物は残っても悪くない。しかし、日本人全員がここで懐古趣味に浸っていたら、日本には未来がないということに気付かなければならない。
すでに欧米のみならず、途上国でも、怒濤の勢いでデジタル化・IT化・ネットワーク化に向かって社会と経済の合理化に真っ直ぐ突き進んでいるのだ。
日本人だけ紙の印刷物にこだわっていたり、あるいは紙の紙幣にこだわっていたりしてガラパゴス化してしまうと、次世代の日本は全世界で最も時代遅れになった国と化す。
デジタル化された社会の進化は凄まじく早いので、いったん遅れると取り返せない遅れとなってしまう危険が高い。
日本人がいつまでも古くさい折り畳み携帯電話にこだわってスマートフォンに移行しなかったので、日本企業がスマートフォンに本腰を入れずに結局は業界に乗り遅れて致命傷となった例もある。
今、全世界が社会の隅々で「紙で印刷された情報」から「デジタル情報」へと移行させている最中なのだ。それで社会が効率化されていき、その効率化のノウハウが次世代の基礎になる。ここをいち早く乗り切った国が次の時代の覇者となる。
つまり、次の世代を日本という国が生き残るためには、日本政府も日本人も意図的に「紙の印刷物」に対するこだわりを捨てて全力でデジタル化に移行しなければならない。
日本人が、紙の新聞を読んで、紙の書籍を買って、紙の紙幣を使って、紙の切符で電車に乗っているようなら、社会の進歩が世界と比較してどんどん遅れてしまう。
次世代に日本を生かすためには何をしなければならないのかという発想は、今の年老いた政治家や経営者や教育者は何も持っていない。未来の危機が見えていない。
国民も高齢化して次世代のためのイノベーションを取り入れることよりも、現状維持しか考えない。
この日本社会を覆い尽くす「時代遅れ」が日本の未来の芽を摘んでいると誰も気付かないのは不幸だ。日本を衰退させたくないのであれば、自分自身をデジタル化に適応させなければならないのである。
紙媒体に依存した今の新聞社が凋落するのは実は正しいことであり、紙の新聞が消えてすべてデジタル化するのも正しいことなのだ。
日本の未来のために、社会全体がそうなるようにしていかなければならないのだ。そんな重要な時期に、今さら紙の新聞やら紙の書籍やら紙の紙幣等にこだわっていると、それが日本の未来の致命傷と化す。(written by 鈴木傾城)
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