金融リテラシーが高くても、それで経済的な安定がもたらされるわけではない?

金融リテラシーが高くても、それで経済的な安定がもたらされるわけではない?

金融リテラシーとは、金融に関する知識、理解、スキルを意味する。「金融リテラシーが高ければ経済的に成功する」という考えは、現代社会で広く浸透している。だが、この見解は、かならずしも「全面的に正しい」とは言えないのかもしれない。金融リテラシーが高くても非合理な行動をする人は多い。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com

金融リテラシーと経済的成功の関係性について

「金融リテラシーが高ければ経済的に成功する」という考えは、現代社会で広く浸透している。だが、この見解は、かならずしも「全面的に正しい」とは言えないのかもしれない。

多くの研究は金融リテラシーと経済的成功のあいだに一定の相関関係があることは認めている。しかし、両者の関連性は単純ではない。経済的な成功は、ほかの多様な要因も重要な役割を果たしていることが明らかになっているからだ。

金融リテラシーとは、金融に関する知識、理解、スキルを意味する。

これには予算を管理する方法、貯蓄をする方法、投資のスキル、借入金の扱いなどの能力が含まれる。一般的に、金融リテラシーが高い人はより適切な金融判断を行い、経済的安定を実現しやすい。

だが、それで経済的に成功するかどうかは別問題なのだ。

金融知識が豊富であっても、かならずしも高収入を得られるわけではない。金融リテラシーは経済的成功の一要素に過ぎず、教育レベル、職業選択、社会的背景、運などの他の要因も同様に重要である。

また、金融リテラシーが高くても非合理な行動をする人も多い。

たとえば、金融知識が豊富な人であっても、リスクの高い金融商品に投資したり、過剰なレバレッジをかけて投資するケースなどが見られる。欲が絡んだら、金融リテラシーが高くても間違った道に進んでいく。

金融リテラシーは経済的成功のための重要な要素ではあるが、それだけで経済的成功が保証されるわけではない。

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人間の意思決定はつねに合理的ではない?

金融リテラシーがあっても、失敗してしまう人は山ほどいる。それは、さまざまな欲望が心の中に渦巻いていて、それが合理的な判断を狂わせるからだ。こうした不条理な行動派、行動経済学の知見が明らかにしている。

行動経済学は、人間の意思決定がつねに合理的ではないことを明らかにした。

たとえば、人はリスクを過小評価したり、将来の利益よりも現在の利益を優先したりする傾向がある。これらの行動バイアスは、金融リテラシーが高い人であっても影響を受ける。

たとえば、投資に関する知識が豊富な人でも、感情的な要因によって非合理的な投資判断をくだすことがある。株式市場の変動に際して、パニック売りをしたり、根拠のない情報に基づいて投資したりするのだ。

感情は理性よりも強烈だ。そのため、感情がコントロールできないのであれば、いくら金融リテラシーがあっても理性が伴わない。

そのため、金融リテラシー教育の効果について懐疑的な見方をする人もいる。多くの研究が、金融リテラシー教育が金融知識の向上に寄与することを示している一方で、「実際の金融行動に与える影響は限定的である」というのだ。

大学生を対象とした研究では、金融リテラシー教育を受けたグループと受けていないグループとのあいだで、金融行動に大きな差がみられなかった。これは、金融リテラシー教育が、知識の定着や行動変容につながりにくいことを示唆している。

端的に言うと、「頭でわかっていても行動が伴わない」のだ。金融リテラシーを身につけても、修羅場でパニックに陥って感情的な判断をしてしまったら、金融リテラシーはなかったも同然だ。

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金融リテラシーがあっても経済的安定が得られない

現代社会は、弱肉強食の資本主義である。資本主義に即していない人間は徐々に経済的に窮していく。そういう社会となってしまった。そして、現代は「株式」資本主義であり、株式市場が資産形成の中心にある。

だからこそ、金融リテラシーが重要な時代になってしまった。

金融リテラシーの重要性が認識されるようになったのは1980年代だと思う。この時代以後、金融市場の自由化とグローバル化が進展し、個人が利用できる金融商品やサービスが多様化したからだ。

これにより、個人はより複雑な金融判断を迫られるようになった。

同時に、社会保障制度の持続可能性に対する懸念が高まり、自己責任による資産形成の重要性が強調されるようになった。年金制度の改革や医療費の自己負担増などが進む中で、個人は老後や医療費などの将来の支出に備える必要性が高まった。

「自分の面倒は自分で見ろ」が現代社会の姿だ。このような状況下で、金融リテラシーは、個人が経済的安定を達成するための重要な能力として位置づけられるようになっている。

最近になって、政府も国民の面倒を見るのをあきらめて「老後は2000万円貯めろ」とか「年金に頼るな」とか「貯蓄より投資へ」とか言い出している。そのために金融リテラシー教育を推進して、とにかく自己責任で何とかさせる方向に舵を切っている。

しかし、個人的には、政府も人々も大きな勘違いしているように見える。最初に言った通り、金融リテラシーは、個人の経済的安定を約束するわけではない。

たしかに、経済的安定を達成するための重要な要素であることは否定できない。だが、それだけで、すべての人が経済的に成功できるわけではない。金融リテラシーがあっても経済的安定が得られない人はおびただしくいる。

それが、政府も人々も見えていないように思える。

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政府も人々も大きな勘違いしている

経済的成功には、金融リテラシー以外に多くの要因が影響する。出身、親の財産、学歴、職業、専門知識、コネ、スキル、運など、経済的に成功に必要な要素は数限りなくある。すべてが必要なわけではないが、何かしらが必要だ。

実際、金融広報中央委員会の調査によると、低所得者層や高齢者層の金融リテラシーは、他の層に比べて低い傾向にある。これらの層は、金融知識やスキルが不足しているために、金融トラブルに巻き込まれたり、不適切な金融判断を下したりするリスクが高い。

これらの要因のいくつかは、個人の努力だけではコントロールできない場合が多い。たとえば、低所得者層の子供は、教育機会が限られているために、高収入を得る職業につくことが難しい。スタート時点から、資本主義社会から排除されている。

では、経済的に成功に必要な要素の複数を持った恵まれた人は絶対に経済的安定が得られるのかといえば、それがそうでもない。金融リテラシーが高い人でも、市場で致命的な損失をこうむることも珍しくない。

たとえば、感情のコントロールができないのであれば、いくら金融リテラシーがあったところで何の意味もない。

欲望にまみれて巨大なレバレッジをかけてハイリスク・ハイリターンを狙ったり、一攫千金でひとつの株式に賭けたり、あるいは相場が暴騰しているときに「もっと騰がるかもしれない」と飛び乗ったり、相場が暴落しているときに「もっと下がるかもしれない」と投げ売りしたり、感情が優先すると資産はまたたく間に吹き飛ぶ。

金融リテラシーがあってもそうなるのは、感情が理性を圧倒するからだ。感情のまま行動するのであれば、もはや金融リテラシーはないも同然である。結局、「金融リテラシーが高ければ経済的に成功する」という考えは、間違っていることになる。

金融リテラシーは重要だが、それ以前にもっと重要なものがあるとしたら、それは感情や欲望のコントロールであると言える。感情がコントロールできない限り、どれだけ高度な金融リテラシーがあっても意味がない。

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