支援というのは、その先には自立することが前提としてある。本来は必要最小限の支援を受けて、元気になったら自立のために行動すべきなのだ。しかし、一部の人はそれをしないで、より多く、より長く支援を受ける方にエネルギーを注ぐようになる。そして、それが長く続くことによって自立の芽が枯れる。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)
支援にも「負の面もある」ということに気付くべきだ
コロナ禍によって多くの人が困窮した。厚生労働省は2021年3月1日に、「解雇や雇い止めは、見込みを含めて2月26日時点で累積9万185人になった」と発表しているのだが、実際にはそれどころではない数字の人が苦しんでいるというのは多くの人が知っている。
というのも、総務省が2020年12月1日に発表した10月の労働力調査は、「就業者数が前年同月比93万人減だった」と言っているからだ。
実際には雇われていなければならない人が93万人も減っているということは、「解雇や雇い止め」以前に、最初から雇われることすらもない人たち、雇われずに苦しんでいる人たちが大勢いるということになる。
そうであれば、コロナ禍で影響を受けているのは「9万185人」ではないのは当然のことである。さらに言えば93万人「だけ」が苦しんでいるわけではなく、緊急事態宣言や社会の自粛モードやステイホームによって多くの業種が従業員の賃金を削減している。人々の可処分所得は明らかに減少している。
日本は小泉政権で行われた竹中平蔵の経済政策によって構造改革が強引に行われ、どんどん若年層の非正規雇用化が進んでいき、2020年代には非正規雇用で、平均年収が186万円の若年層が社会の底辺を覆い尽くすようになった。
社会学者の橋本健二氏は、この層を「アンダークラス」と呼んだ。
このアンダークラスは社会が不景気になると途端に仕事を失い、仕事が見つからないとすぐに家賃の支払いにも滞るようになり、数ヶ月後には住居を失う人も多い。彼らがネットカフェ難民やホームレスのような住所不安定就労者になる。
こうした人たちを政府は救済しなければならないのは当然のことだ。
しかし、「困っている人には金を与えればいいのだろう」という支援や救済は非常に乱暴なものであるように見える。支援は受ける側にとっては、複雑な感情を生み出すからである。支援にも「負の面もある」ということに、私たちは注意深く気付く必要がある。
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「自助努力をしないこと」が最も合理的な生き残りとなる
世界中の難民キャンプでも、支援に慣れたら「自助努力をしないこと」が最も合理的な生き残りであると気付いて、何もしない難民が増えていく光景は現場ではよく知られている。支援にどっぷりはまってしまうと、支援に依存してそこから抜け出せなくなる人が出てくるのだ。
たとえば、生活保護も「支援の依存」の問題を生み出す。
一時的に生活が困難になった人を保護するのが生活保護だが、いったんそこに落ち込むと、精神的にも隷属が生じて抜け出せないのである。これは、生活保護を受給している多くの人が口々に言う現象だ。
弱者支援のボランティアに関わる人たちがいる。彼らは最初、希望に燃えて運動に身を投じている。しかし、やがて割り切れない思いを持って現場から去る人も出てくる。
「支援の依存」のワナに落ちて、まったく自立しようとしない人たちがいることに違和感を感じ、ある日その現実に耐えられなくなってしまうからだ。支援されることに甘え、支援者に寄りかかり、「もっとよこせ」と要求する人たちが出てくるのだ。
その姿に幻滅して、現場を去っていく。
支援を受ける側は、意図的にそれを悪用しようとしているわけではない。ただ、少しでも有利に、そしてたくさん支援を受けようと思っているだけなのだ。すなわち「自助努力をしないこと」が最も合理的だと無意識に気付くのである。
支援というのは、その先には自立することが前提としてある。本来は必要最小限の支援を受けて、元気になったら自立のために行動すべきなのだ。しかし、一部の人はそれをしないで、より多く、より長く支援を受ける方にエネルギーを注ぐようになる。
そして、それが長く続くことによって自立の芽が枯れる。間違った支援を受け続けることによって、人に頼らないと何もできない人間になっていく。
人間は弱く、安易な方向に流される。支援を受けなければならない弱い立場のままでいて、それで長く支援が受けられると分かったら、「意図的に弱い立場に固執する」人たちが生まれてくるのは当然だ。
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「俺は可哀想だ。だからもっと支援しろ。ずっと支援しろ」
弱者を支援するなとは言っていない。まったくの逆だ。弱者の救済や支援は社会の責務である。生きるか死ぬかの地獄に突き落とされた人を助けなければならないのは人間としては当然のことなのだ。それに疑問はない。
いかなる理由があっても、極貧で苦しんでいる人を放置するのは人間的ではない。誰もが何とかしないとならないと思う。だから、そういった活動に従事するNPO団体や国連の職員は、人類で最も崇高な仕事をしていると言える。
実際にそうした人道援助で数百万人、数千万人もの人々が助かっており、その功績は政治家がもらうノーベル平和賞よりもずっと価値がある。
援助が一部に自立の気持ちを奪ってしまうという現象があっても、それで支援する側を責めるのは間違っているし、彼らの行為を汚すものではない。
かと言って、支援を受けている人たちが、自立心を失ってしまったとしても、それで弱者を責めるのもなかなか難しいものがある。
ただ何もしないでいたら温かいスープが飲めるシステムになっていたら、誰でも何もしないでじっとしている。「支援の依存」は誰にでも心に芽生える心理であり、人間的な感情でもある。
人は環境に依存する生き物であり、支援で生きられる人がそれに依存するのは、環境に最も適応したサバイバル能力の強い人であると言うことも可能だ。
しかし、支援に依存して生きるのが間違っているというのは、それではいつまで経っても、自分の人生を自分で生きることにならないからだ。
生き残るためには、支援者に対して「俺は弱者だ、俺は苦しんでいる、俺は弱っている、俺は可哀想だ。だから、もっと支援しろ、ずっと支援しろ、さっさと支援しろ」と要求することが正義になってしまうからである。
場合によっては、社会的弱者という立場を既得権益化させて、社会にゆすり・たかりをするところにまで到達してしまう危険もある。
社会がそれを黙認していると、今度は「弱者になった方が楽だ」ということを計算する人間を呼び込み、弱者ビジネスに発展していく流れも生まれてくる。
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支援というのは、やり方を間違えると誰も幸せにならない
生きるのに難しくなればなるほど、「自立とは何か」は深く考えるに値する。「自立とは、自分の収入で生活ができることである」というのはほぼ合っている。しかし、完全に正しい答えではない。
もし自分が収入を得ている所属先から切られたら生きてはいけないという状況になっている時、それは自立していると言えるだろうか。
「この仕事をクビになったら生きていけない」
「配偶者と別れたら経済的に生きていけない」
「この人に見捨てられたら生きていけない」
自分で働いている場所や人から切られたら生きていけないという状況になると、それは、そこに隷属してしまっているということでもある。
他人に隷属するというのは、他人の支配や理不尽を受け入れなければならないということでもある。何を言われても、何をされても、黙って耐えて耐えて耐え続けるしかなくなる。
なぜなら、どんなに罵倒されても嘲笑されても、そこから逃れられないからである。たとえ、暴力を振るわれても耐えなければならない状況に陥るかもしれない。それは、自立している状態と言えない。
本当の意味で自立しているというのは、他人からの隷属を離れていつでも独り立ちできるということだ。つまり、政府にも会社にも個人にも、誰にも頼らないで生きられるというのが自立しているということなのだ。
これは、誰もが一生を賭けて追求するに値するものだ。それが成し遂げられた時、人は心からの自由を手に入れて羽ばたくことになる。自立。自由。他人に依存しないで生きることができるというのは、とても素晴らしいことだ。
多くの人が自立を成し遂げられ、自分らしく生きることができるようになるのを、私は心から願う。自立するために、戦う価値はある。
だから、支援というのは「将来の自立のため」に存在しなければならないと私は強く考えている。下手な支援は、人々の自立を失わせて「支援の依存」にしてしまう。そこに配慮がない支援は、支援する人の人生を台なしにしてしまう。支援というのは、やり方を間違えると誰も幸せにならない。