2017年7月。国連難民高等弁務官事務所は世界の難民が過去最多の2250万人になったことを報告しているのだが、これに避難民を入れるとさらに4310万人近く増大し、6560万人が避難生活を余儀なくされている。
凄まじい数であり、危機的な数でもある。国際社会は必死で支援しているのだが、支援を続けることによって今度は新たな問題が発生するようになっている。
支援は絶対に必要だ。しかし、多くの難民が保護キャンプに集まって支援を受けるようになったとき、支援漬けになって自立ができなくなる現象が徐々に問題化している。
コンゴの人々、ソマリアの人々、そして南スーダンの人々。難民キャンプに生きる人たちはみんな自立を忘れて、支援を受けるために生きるようになる。
アフリカ難民だけではない。アフガニスタン難民でも、シリア難民でも、同じ問題が発生している。難民キャンプで、何もしなくても食料が得られるようになると、働くことを忘れ、ただ無為に時間を過ごすだけになる人も多い。
アメリカでも、フードスタンプの生活に落ちると、それを当てにして逆に自立ができなくなるという。インドでも貧困層の支援が始まると、働いていた人たちも働かなくなってしまったという例がある。
意図的に弱い立場に固執する人たちが生まれてくる
ヨーロッパの移民支援もまた同じだ。
移民の支援は移民がその国に慣れるまでの最初の間だけのものだが、支援にどっぷりはまってしまうと、支援に依存してそこから抜け出せなくなる人が出てくる。
日本の生活保護にも同じ問題がある。
一時的に生活が困難になった人を保護するのが生活保護だが、いったんそこに落ち込むと、精神的にも隷属が生じて抜け出せないのである。
弱者支援のボランティアに関わる人たちがいる。彼らは最初、希望に燃えて運動に身を投じている。しかし、やがて割り切れない思いを持って現場から去る人も出てくる。
なぜか。援助に依存して、まったく自立しようとしない人たちがいることに違和感を感じ、ある日その現実に耐えられなくなってしまうからだ。
支援されることに甘え、支援者に寄りかかり、もっとよこせと要求する人たちが出てくる。その姿に幻滅して、現場を去っていく。
支援を受ける側は、意図的にそれを悪用しようとしているわけではない。ただ、少しでも有利に、そしてたくさん支援を受けようと思っているだけなのだ。しかし、それが支援の隷属につながっていく。
本来は必要最小限の支援を受けて、元気になったら自立のために行動すべきなのだが、それをしないで、より支援を受ける方にエネルギーを注ぐようになる。
そして、それが長く続くことによって自立の芽が枯れ、人に頼らないと何もできない人間になっていく。人間は弱く、安易な方向に流される。
支援を受けなければならない弱い立場のままでいて、それで長く支援が受けられると分かったら、「意図的に弱い立場に固執する」人たちが生まれてくるのだ。
何もしないで温かいスープが飲めるシステム
生きるか死ぬかの地獄に突き落とされた人を助けなければならないのは当然だ。それに疑問はない。
いかなる理由があっても、飢饉や内戦や極貧で苦しんでいる人を放置するのは人間的ではない。誰もが、何とかしないとならないと思う。
だから、そういった活動に従事するNPO団体や国連の職員は、人類で最も崇高な仕事をしていると言える。
実際、そうした人道援助で数百万人、数千万人もの人々が助かっており、その功績は政治家がもらうノーベル平和賞よりもずっと価値がある。
援助が自立を奪ってしまうという現象があっても、それで支援する側を責めるのは間違っているし、彼らの行為を汚すものではない。
かと言って、支援を受けている人たちが、自立心を失ってしまったとしても、それで弱者を責めるのもなかなか難しいものがある。
ただ何もしないでいたら温かいスープが飲めるシステムになっていたら、誰でも何もしないでじっとしている。
人は環境に依存する生き物であり、支援で生きられる人がそれに依存するのは、環境に最も適応したサバイバル能力の強い人であると言うことも可能だ。
しかし、支援に依存して生きるのが間違っているというのは、それではいつまで経っても、自分の人生を自分で生きることにならないからだ。
それの何がまずいのか。
仮に支援する側が、理不尽なことを求めてきたらどうなるのか。強制労働を求めればどうなるのか。性的交渉を求めてきたらどうなるのか。
「支援してやるから俺の奴隷になれ」と言われたら、支援に依存が強ければ強いほど拒絶できなくなる。支援のワナというのは、そこにある。人生を支援者が支配するのである。
自立の本当の意味とは何か知っているか?
ところで、「自立」とは何かというのを、深く考えたことがあるだろうか。「自立とは、自分の収入で生活ができることである」というのは、ほぼ合っている。
しかし、完全に正しい答えではない。
もし、自分が収入を得ている所属先から切られたら、もう生きてはいけないという状況になっているとき、それは自立していると言えるだろうか。
「この仕事をクビになったら生きていけない」
「この旦那と別れたら生きていけない」
「この人に見捨てられたら生きていけない」
自分で働いている場所や人から切られたら生きていけないという状況になると、それは、そこに隷属してしまっているということでもある。
他人に隷属するというのは、他人の支配や理不尽を受け入れなければならないということでもある。何を言われても、何をされても、黙って耐えて耐えて耐え続けるしかなくなる。
なぜなら、どんなに罵倒されても嘲笑されても、そこから逃れられないからである。たとえ、暴力を振るわれても耐えなければならない状況に陥るかもしれない。
それは、自立している状態と言えない。
本当の意味で自立しているというのは、他人からの隷属を離れていつでも独り立ちできるということだ。つまり、政府にも会社にも個人にも、誰にも頼らないで生きられるというのが自立しているということなのだ。
これは、誰もが一生を賭けて追求するに値するものだ。それが成し遂げられたとき、人は心からの自由を手に入れて羽ばたくことになる。
自立。自由。他人に依存しないで生きることができるというのは、とても素晴らしいことだ。
多くの人が自立を成し遂げられ、自分らしく生きることができるようになるのを、私は心から願う。自立するために、戦う価値はある。