2000年代、「これから暴力の時代になる」と言っても誰も信じなかった。「憎悪が吹き荒れる時代となる」と言っても誰もが他人事のように考えていた。
しかし、今はもう違う。
2010年代に入ってからあちこちの国で人種や宗教や文化が違う人間同士が激しく対立するようになっていき、終わりのないテロ事件や虐殺や暴言が吹き荒れるようになった。そして、人々はやっと「暴力の時代」を実感するようになった。
「暴力の時代」は、グローバル化と貧困と格差の蔓延を養分にして広がっていったのだが、これらの養分はこれからも豊富に提供されるので、暴力の時代はより加速する。
日本も例外ではない。日本人はグローバル化の拡大の中で、中国・韓国・北朝鮮といった反日国家の人間たちに憎悪されているのをやっと自覚するようになった。
反日とは日本人差別である。日本人憎悪である。相手の差別と憎悪を自覚すれば、日本人もまた相手に対する憎悪を感じるようになっていく。
この次に起こるのは必然的に憎悪の応酬だ。憎悪は拡大し、殺し合いを生み出す。だから、東アジアが殺戮と戦争の嵐になっても不思議ではない。殺し合いの世界になる。
何が「共鳴」して広がるのかは、時代によって違う
時代の流れというのは、とても大きなものだ。それは一個人や一政治家や一国が止めようと思っても止まるものではない。
時代はあらゆる人々の声を飲み込み、その時の最も研ぎ澄まされた声が拾い上げられ、そしてその声は「共鳴」しながら拡大していき、大河となっていく。
何が「共鳴」して広がっていくのかは、時代によって違う。
ある時代では「理想」を求める声が共鳴する。ある時代では「革新」を求める声が共鳴する。そして、ある時代では「平和」を求める声が共鳴する。
しかし、平和というのは相互で作り上げるものであって、相手が憎悪を剥き出しにしていたら一方が平和的であろうとしても失敗する。憎悪が剥き出しの時代には、「憎悪」が人々に共鳴するのである。
今、世界中で「憎悪と暴力に対する共鳴」が広がっていることに気付く人も増えた。
その声は局地的なものではない。濃淡はあるが、「暴力に対する共鳴」が深く、広く、全世界に伝播しつつある。そんな時代となっている。
EU(欧州連合)では、ここ数年で大量の移民・難民がなだれ込むようになってから国内で異民族同士の激突が表面化するようになっていき、憎悪と暴力が政治をも揺るがすようになっていった。
アメリカでもドナルド・トランプ大統領が登場して、アメリカ国内と、アメリカを巡る世界情勢が一気にきな臭いものになっている。
トランプは対立を恐れない。また、対立をエスカレートさせる。そのため、北朝鮮や中国のような傲慢な国とは遅かれ早かれ対立するのは時間の問題だった。
何がきっかけになるのかは分からないが、いずれは相手国をなじる激しい非難の応酬は、実際の暴力として結実しても誰も驚かないだろう。
人類の歴史は平和の歴史ではなく、戦争の歴史
こういった「暴力への共鳴」はそれぞれの国で別々に起きている事象だ。
しかし全体としてまとめてみると、暴力に共鳴する方向にあることは、奇妙なまでに一致していることが読み取れるはずだ。今の世界は暴力に共鳴するようになっている。
暴走していくグローバル資本主義。そのような社会システムの不満、格差の拡大、政府への不信、異民族に対する憎しみ、衝突、紛争、戦争……。
それぞれが密接に絡み合いながら共鳴しあっていて、それが暴力を誘発している。
憎悪は現代を覆っている空気であり、時代の雰囲気であると言ってもいい。一過性のもの、地域的なものではなく、世界全体を覆い尽くす巨大な潮流なのである。
だから、それは止められない。
誰も「憎悪と暴力」の時代など望んでいないはずだが、それは強い感情でシェアされ、拡散しているので、「暴力への共鳴」が止まらなくなっている。
人類は第一次世界大戦が止められず、第二次世界大戦も止められず、アメリカもソ連も冷戦を止められず、冷戦が終わってもアメリカは中東での戦争を止められなかった。
人類の歴史は平和の歴史ではなく、戦争の歴史である。局地的には平和の時代もあるのだが、大きなスパンで見ると必ずどこの国でも戦争の時代がある。
第二次世界大戦以後から現代まで日本が平和の時代であったとすれば、時代が転換するとすれば、次は「戦争の時代」になるということだ。日本が仕掛けなくても、周辺国が仕掛けて来たら同じことだ。
何らかの劇的な転換がない限り、この大きな流れは止まらないと考えるべきだ。硝煙の臭いを、私たちは感じ取らなければならない。
「平和はまやかしだ」「防衛しなければならない」
もう平和の時代は終わるのだから、日本人は意識改革を急いで行う必要がある。
いつまでも平和が続くと思ったらいけない。これからは巨大な暴力が蔓延する時代になると考えて、準備しておかなければならない。
マスコミは「平和、戦争反対、憲法第九条」と叫んでいるが、それすらも逆に日本を巡る凄まじい暴力の前触れと思わなければならない。
朝日新聞や毎日新聞や東京新聞を見ても分かるが、現在のマスコミは中国・韓国・北朝鮮の機関誌のような存在と化しており、倒閣ビラと馬鹿にされるような偏向ぶりだ。
それは、すでにマスコミが中国・韓国・北朝鮮の工作員に乗っ取られた組織であることを意味している。では、それらの乗っ取られた組織が「平和」を叫んでいるということは、どういうことなのか。
それは、平和を建前にして日本人に戦わせないようにしているということなのである。
中国・韓国・北朝鮮が戦わずして日本を侵略できるように、平和を唱えて武装解除させているのだ。
日本人が武装解除し、防衛を放棄し、何をされても戦わない民族になったら、侵略が容易になる。また、戦わない日本人を組織的に殺戮することができる。
マスコミに乗せられて「平和、みんな仲良く」などとお花畑なことを言っていたら、侵略されて殺されるような事態にまで発展するということだ。「平和」という建前で無防備にされて殺される。
しかし、日本人は中国・韓国・北朝鮮の人間たちに反日という憎悪を突きつけられており、憎悪が暴力を呼ぶときちんと現状認識できていれば、「平和はまやかしだ」「防衛しなければならない」と自然に思うようになり、道を誤ることがない。
暴力の共鳴が世界で広がっている。今の季節、時代は変わったことを自覚するのは良い機会だ。今はもう戦後ではない。次の時代の戦前である。
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