極端な金持ちや極端な貧困者は、なぜ満員電車に乗っていないのか?

極端な金持ちや極端な貧困者は、なぜ満員電車に乗っていないのか?

欧米の映画で、資産家のお屋敷で家族が広いテーブルの端と端に座り、非常に距離を置いて接しているのを見たことがあるはずだ。逆に後進国の映画を観ていると、肩を寄せ合ってみんなで和気藹々としている場面が多い。

人間は不思議なもので、豊かになればなるほど他人と距離を置くようになる。豊かになると、なぜか距離を置くことが重要になっていくようだ。逆に貧しくなればなるほど他人との距離が近づき、相手の体温すらも感じるようになる。

かつての日本は、子供同士が取っ組み合いをしたり、肩を抱き合ったりして遊んでいた。ところが、国が豊かになるにつれて、子供たちは互いに距離を置くようになっていった。

豊かさで、距離感が変わる。

カネの有無が、人間と人間の距離感を微妙に変えて行く。いったいなぜ、そんなことになってしまうのだろうか。貧しい国の子供たちは、みんな裸になって、喧嘩の真似事をしたり、互いにじゃれ合ったりしているのを見る。

貧しい国では、見知らぬ子供でも近寄ってきて話しかけてきたり、べたべたとくっついてくることは当たり前に多い。しかし、豊かな国では、どこに行っても見知らぬ子供が話しかけてきたり、くっついて来るようなことはない。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

同じくらいの階層の人たち

カネがあるなしで人間の感覚は違ってくる。そうだったとしたら、いったいなぜ、そうなってしまうのだろうか。カネが人間の距離感を微妙に変えてしまうのは、何となく気が付いていて、それをずっと不思議に思ってきた。

真っ先に思ったのは、「清潔感」なのかという推測だ。大人も子供も、高くて、清潔な服を着ていると、どうしても服を汚したくないとか、清潔感を保っていたいとか、そのようなことを考える。

子供心にも、自分が清潔な服を着ていると思うと、その清潔さを保っていたいと考える子供が出てきても不思議ではない。泥だらけの子供が向こうから来たら、走って逃げるだろう。

これは大人も同じで、清潔な背広を着た人が、泥にまみれた工事現場の作業員と一緒に肩寄せ合うことはない。

日本では朝夕の満員電車があるが、実はこの満員電車は、だいたい同じくらいの階層の人たちの集まりになっている。

極端な金持ちや極端な貧困者は満員電車に乗っていない。それは、誰もが無意識で知っている。たまにホームレスのような人間が禁を破って乗ってくると、みんな「距離を置く」ので、ぽっかりと空間ができる。

差別があるのではなくて、単純に「汚れたくない」という無意識の清潔感がそうさせている。これは、階層が違うと、距離感を置くようになるという良い見本だ。

では、普通のサラリーマンよりかなり飛び抜けた金持ちが満員電車に乗らなくなるのはどうしてだろう。

タクシーやハイヤーが使えるようになって、満員電車に乗らなくてもよくなったという側面はあるはずだ。世田谷区では朝になると、高級マンションの前にハイヤーがいくつも停まっていて、それに乗って通勤するエリートの姿を見かける。

タクシーやハイヤーの中で仕事ができるので都合が良いという面もあるのかもしれない。そして、その他に「自分は飛び抜けた」ので今さら満員電車のようなものに乗れるか、というプライドも出てくるのかもしれない。

かくして、極端な金持ちや極端な貧困者は満員電車からいなくなる。

【金融・経済・投資】鈴木傾城が発行する「ダークネス・メルマガ編」はこちら(初月無料)

一定の距離を持つのが当たり前に

金持ちになればなるほど、自分は「飛び抜けた」という意識を持つようになる。そうすると、その意識が無意識に他人を遠ざけることになるのではないか……。

そう思ったのは、カネと共に権力をも合わせ持った王族や貴族の態度がそうだからだ。

王族や貴族は、実際、自分たちを気安く触らせない。それは、「自分たちは階層が上だ」という意識があるからだ。触らせないことによって、自分たちが特別だと振る舞える。

また、触らせないことによって、非人間的な印象を強め、神格化にもつながっていく。だから、豊かになればなるほど、自我が強くなって距離感を求めるのかもしれない。

あるいは、カネを持つようになると、他人が信じられなくなり、猜疑心が強くなることもあるだろう。

子供も、豊かな国の子供ほど、「大切な物」をたくさん持っている。他人との距離が近づけば近くづくほど、盗られそうに感じてしまう。そうやって、猜疑心が芽生えていく。

大人になればなおさら猜疑心が募って、他人とは一定の距離を持つのが当たり前になっていく。見知らぬ人、得体の知れない人には近づきたくないはずだ。見知らぬ他人を自分の家に上げるなど、日本ではとんでもない話だろう。

ところが、貧しい国に行くと、よく他人の家に招き入れられる。飲み物が出てきて、挙げ句の果てに「泊まっていけ」という話になる。いくつかの国のスラムでは、そうやって何回も他人の家に招き入れられた経験がある。

当然だが、日本ではそんな経験はない。

カネのあるなしによって距離感が違っていくのは、よく人間を観察していると分かってくる。

ダークネスの電子書籍版!『邪悪な世界の落とし穴: 無防備に生きていると社会が仕掛けたワナに落ちる=鈴木傾城』

それはいずれ社会に反映されていく

この人間の持つ「距離感」は、社会にどのように影響していくのか。実は、一億総中流が崩壊した日本では、この「距離感」によっていよいよ新しい社会が形作られようとしている。

日本はすでにOECD加盟国平均よりも貧困率が高い国だ。厚生労働省の「国民生活基礎調査」によると、2015年の貧困率の最新値は15.6%だった。これは人口で言うと1970万人という数字になる。

1970万人が貧困なのに、この貧困層はあまり意識されていない。

なぜか。大卒で大企業に勤めるホワイトカラーの人々や、首都圏郊外の一戸建て住宅地に住んでいると、「貧困層と会うことがない」からだと指摘しているのは、早稲田大学人間科学部教授の橋本健二氏だ。

日本はすでに「学歴・出生年・性別」という属性で区分けされており、それぞれ住む場所も違っていて「分断」が起きるようになりつつある。

東京で言えば、足立区に貧困層が多いというのはよく知られているのだが、他にも山手線のすぐ外側を取り囲むように存在していたり、千葉や横浜市や川崎市の一部にスポット的に存在することも知られている。

港区や世田谷区の金持ちエリアに住む富裕層は、足立区などの貧困エリアに住む貧困層とは「生きている世界」が切り離されていて、互いに相手の存在を感じなくなりつつある。

個人が持つ「同質を近づけて異質を排除する」という距離感が、集団になると富裕エリアと貧困エリアを生み出して、それぞれが家賃などによって区分けされていくようになり、やがて互いに相手のことが分からなくなっていくのである。

年収600万円以上の人々は、年収200万円以下の人々の人生が想像できない。その逆も然り。互いに知り合いもいないし、積極的に関わる理由もないので、相手の人生を慮ることもなくなる。

カネのあるなしによって距離感が違っていく。そして、それはいずれ社会に反映されて分断を生み出していく。日本がそうなっていこうとしていることに気付いている人はそれほどいないだろうが……。(written by 鈴木傾城)

このサイトは鈴木傾城が運営し、絶えず文章の修正・加筆・見直しをしています。ダークネスを他サイトへ無断転載する行為は固くお断りします。この記事の有料転載、もしくは記事のテーマに対する原稿依頼、その他の相談等はこちらにメールを下さい。

1970万人が貧困なのに、この貧困層はあまり意識されていない。日本はすでに「学歴・出生年・性別」という属性で区分けされており、それぞれ住む場所も違っていて「分断」が起きるようになりつつある。

この記事のツイッター投稿はこちらです

この記事を気に入って下さった方は、リツイートや♡(いいね)を押して頂ければ励みになります。

一般カテゴリの最新記事