
暗い部屋にドアが半開きになって、ドアの向こう側は燦然と輝いている光景があったとする。この状態で外の明るさに希望を感じるだろうか。それとも部屋の暗さに悲観を感じるだろうか。どちらが正解というわけではない。人の捉え方は百人百様だ。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。
「まだ」なのか「もう」なのか?
暗い部屋にドアが半開きになって、ドアの向こう側は燦然と輝いている光景があったとする。この状態で外の明るさに希望を感じるだろうか。それとも部屋の暗さに悲観を感じるだろうか。
どちらが正解というわけではない。人の捉え方は百人百様だ。
しばらく働いていない状態で、300万円あった貯金が取り崩されて150万円になったとする。これを「まだ」半分あると思うか、「もう」半分しかないと思うかも人によって違う。
貯金が半分になったという認識はどちらも持っているのだが、捉え方によって目に見える世界はまったく違うものになっている。一方は貯金が半分もあることで楽観を生み出し、一方は貯金が半分しかないことで悲観を生み出す。
楽観的な気質がある人は、常に「まだ半分もある」という認識である。この「まだ」という認識は楽観的であるゆえに素晴らしい認識だと思われている。多くの成功哲学は、ほとんどが楽観的になることを勧めている。
しかし、勘違いしてはいけないことがある。
楽観的であっても成功は保障されているわけではないということだ。楽観的であれば成功しやすいかもしれないが、楽観的であるがゆえに失敗することも多くある。
たとえば、自分は潜在能力が高いので少しくらいはサボっても大丈夫だろうと楽観的に考えるかもしれない。あるいは、悲惨な境遇にあっても、誰かが自分を助けてくれるだろうと楽観的に考えて向上しないかもしれない。
状況は最悪なのに「大丈夫だろう」と現実を見ないで楽観的な思い込みにしがみついている人を、私たちはまわりにいくらでも見つけられるはずだ。
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自滅していった楽観主義者たち
楽観的であることによって現実を見る目が偏ると、正常な現状認識ができなくなって自滅することは決して珍しいことではない。
「何とかなるだろう」と言って、何ともならない目に遭った人を私たちは長い人生でいくらでも目にしている。
ただ楽観的であることで成功するというのは、たわごとだ。それは根拠のない思い込みである。それは、場合によっては犯罪的な誤認誘導であるとも言える。
身体のどこかに痛みを感じても「大丈夫だろう」と楽観的に考えて、取り返しのつかない病気で手遅れになる人もいる。楽観的であることで、時には自分の寿命さえも縮めてしまうのだ。
危険な仕事に就いている人でも、大丈夫だろうと楽観的に考えて安全確認を怠って、大怪我をしたり命を失ったりする人もたくさんいる。楽観的であることが致命傷になるのだ。
楽観的であり過ぎて自分の能力を過信して努力を怠り、結局は失敗してしまう人も大勢いる。また、「自分はすごいのだ、やればできるのだ」と根拠のない楽観主義にとらわれて、現実に叩きのめされる人もいる。
楽観的な人はその楽観性ゆえに、強引な事業拡張、強気の借金、無謀な勝負、いちかばちかの投資、根拠のない楽観的な勝利の確信にとらわれて地獄に堕ちるケースが多い。
楽観ゆえの無計画で、次々と失敗と借金を膨らませて行く人も珍しくない。年収を度外視した住宅ローンを組んで、結局は首が絞まって自己破産に追いやられる人たちの姿もある。
無謀なギャンブルも「いつか当たるだろう」という楽観的な思い込みがもたらしているものであり、買っても買っても当たらない宝くじを買い続けるのも、意味のない楽観主義で頭がいっぱいになっているからだ。
楽観的な失敗者はどこにでもいる。世の中は自滅していった楽観主義者の、死屍累々たる荒野が広がっている。
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悲観的な人がむしろ生き残るという皮肉
もちろん、楽観的であることで成功する人も多い。そうした人たちが楽観主義の素晴らしさを大いに語る。「自分の成功は楽観主義であったからだ」と喧伝し、人々に楽観的であることを勧める。
だから、楽観主義が人生を破滅させるケースを、多くの人たちは無意識に無視してしまう。場合によっては「楽観が足りなかったのではないか」と思い込む人もいる。
現実をきちんと検証すれば、楽観的な人だけが成功しているわけではなく、時には楽観主義とは真逆の悲観論者も成功しているケースも数多くあることに気付くはずだ。しかし、そうしたケースも無視されることが多い。
日本人はそれほど楽観的な民族ではないが、それでも世界有数の経済大国である。ユダヤ人も歴史的に辛酸を嘗めてきたせいで、日本人以上に悲観主義者が多くいる民族だが、それでも数多くの天才と経済的成功者を輩出している。
一方でギリシャ人は楽観的な民族性を持っているが、国は事実上の国家破綻にある。
南米の人たちも享楽的で楽観的な人が多いのだが、国は常に動揺しており、治安も悪く、経済的にも成功しているとはお世辞にも言えない。
東南アジアの人々は日本人から見ると、みんな楽観的だ。たとえば、カンボジア人もまた素朴で楽観的な人が多い。
しかし、ポルポト時代の4年間で100万人が大虐殺の歴史に散っていったのは、この楽観的な人たちが溢れるカンボジアだった。みんな死んでいった。
現実を見れば、楽観的な人間も悲観的な人間も、共に社会に翻弄され、現実に翻弄されている。楽観的な人が死に、悲観的な人が生き残ることも多い。
雨は楽観主義者の上にも悲観主義者の上にも降り注ぐ。天災も不幸も楽観主義者だからと言って逃れられるわけではない。
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「楽観主義至上論」には強い警戒を
当たり前のことだが、成功というのは運の良し悪しを除けば、淡々と能力を磨き、努力し、継続し、反復し、考え抜き、行動し、検証し、改善していく中で生まれてくるものだ。
楽観的に空想して成功できるのではなく、絶え間ない努力や向上心によって成功する確率が高まる。
つまり、重要なのは楽観的でいることではなく、どんな時であっても努力し、向上心を持つことなのである。
きちんとした努力をした末の楽観であればいいのだが、浮ついた楽観論では心もとない。
1990年代のバブル崩壊以後、日本では「楽観的になれば成功する」みたいな本が大ブームになって、繰り返し楽観主義が煽り立てられた。
ところが、日本の現状は混迷するばかりで、貧困も格差もかつてない広がりを見せるようになった。
「楽観的になれば成功する」みたいなのがブームになればなるほど、世の中は荒んでいったのである。
このように考えれば、別に無理して楽観的になっても意味がないことに気付くはずだ。成功さえも楽観主義と直接的には関係ない。
もし「楽観的でいるだけで社会的に成功する」と盲信しているのであれば何かに騙されている。変な宗教とまったく同じだ。現実から浮遊した妄想を、信じ込まされている。
楽観的であっても地獄に落ちる。それは成功も幸福も保障しない。楽観的な性格と社会的な成功はまったく何の相関関係もない。
それが現実である。
だから、私たちを現実から遊離させる「楽観主義至上論」には強い警戒を持った方がいい。楽観的であれば成功するというのは真実ではないからだ。
別に楽観的になることを否定する必要はないが、楽観的になれば成功すると思い込むのは否定しなければならない。
楽観的になるように努力するくらいなら、能力を磨く方に努力をする方がずっと合理的で正しい。楽観的になるよりも、現実的になるべきなのだ。
