「自由が認められる社会が優しくて生きやすい社会」というのは大間違いだ

「自由が認められる社会が優しくて生きやすい社会」というのは大間違いだ

私たちの今の社会は「あらゆる自由を許容する社会」になりつつある。私たちは、それが「優しくて生きやすい社会」に向かって前進しているようなイメージを持っているのだが、本当は逆ではないのかと思った方がいいのではないか。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

「自分自身がリスクを負うこと」ということ

「自由でありたいか、不自由でいたいか?」と問われたら、誰でも「自由でありたい」と思う。しかし、自由であるというのは「自分自身がリスクを負うこと」ということでもある。このリスクの面をあまり深く考えない人がいるのは驚く。

たとえば、学校は勉強することを強いており、勉強しないという選択肢は与えられていない不自由な世界である。どうしても勉強したくない人が学校をドロップアウトすることは可能だ。学校を辞めた瞬間に自由になる。

しかし、世の中は学歴社会なので「学校を辞める」という自由を得た瞬間に、就職しにくい、給料が上がりにくい、社会的安定が得られにくいという不自由な現実に直面することになる。

そして、学校を辞めたのは「自分の意志」なので、以後は自分でその不自由な現実と戦っていく必要がある。

学生だけではない。どこかの会社に就職して給料をもらっている従業員も、給料をもらっている以上は「不自由」を強いられる。

勤めるというのは、「勤務時間が決められていて身体を拘束される」という不自由だけがあるわけではない。仕事に相応しい服装や態度や言葉遣いも強いられる。いくら自分には個性があると言えども会社に合わせなければならないのだ。それは、とても「不自由」なことである。

しかし、現代社会は別に奴隷社会ではないので、会社を辞めたいのであればいつでも辞めることができる。「不自由」から逃れるのは自分の決断ひとつなのだ。会社に辞表を出した瞬間に自由になる。

しかし、自由を引き換えに課せられるのは「自分でカネを稼がなければならない」という現実だ。

個人の自由を得るのは簡単なのだが、その自由を維持するためには自分で何とかしなければならない。誰が助けてくれるわけでもない。自由になったことで、「自分自身がリスクを負う」必要が出てくる。

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自由を手に入れるというのは、リスクを負うということ

女性は家に縛りつけられる古い因習から解き放たれた。「嫁ぐ」ことや「家を守る」ことから解放されて自由になった。

その代わり、もう誰も女性の面倒を見ないので、女性は自分の力で自分を養わなければならなくなった。それを「自由」と受け止める人もいるが、逆に「リスク」と受け止める人もいる。

単身女性の3人に1人は貧困を余儀なくされているのだが、これは「自由を得たことによる代償」でもある。良い悪いの話ではない。自由を得るというのは、リスクを負うというひとつの形に過ぎない。

社会は様々な規範やルールを私たちに課してくる。税金を払え、交通ルールを守れ、裸で歩くな、モノを盗むな、ゴミは決まった日に出せ、ゴミは分別しろ、他人を殴るな、攻撃するな、人を殺すな……。

通常、私たちはこうした社会のルールに「常識だ」と思って従うのだが、これも「不自由」だと思う人が出てきても不思議ではない。

仮に「政府は国民にあれこれ指示するな。税金は払いたくないし、交通ルールは適当になるし、裸で歩きたい時はそうするし、モノは盗まれる方が悪いし、ゴミはいつでも自分の都合で捨てるし、嫌な奴には思い知らせてやる」と考えている人が大勢になって、社会運動に成功してそうした自由をすべて得たらどうなるのか。

誰も税金を払わないので社会のインフラは崩壊し、街は無法地帯になり、犯罪も取り締まる人間もいなくなる。国民は「何でも好きに生きる自由」を手に入れるのだが、ずいぶん生きにくい社会に生きることになる。

自由を手に入れるというのは、リスクを負うということなのだ。

社会が「行動の不自由」「表現の不自由」を国民に強いているのは、それによって国民の生活のリスクを軽減されているということでもあり、一種の優しさであると気づかなければならない。

「何でも自由にする」というのは弱肉強食を生み出し、強い者しか生き残れないような社会になる。

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それは本当に「優しくて生きやすい社会」なのか?

個人事業主や起業家や投資家は自分の意志で経済活動をするわけで、時間を拘束されてやりたくもない仕事を押しつけられている会社の従業員に比べると、とても自由な働き方をしている人に見える。

しかし、彼らにはその「自由」の裏側で大きな「リスク」を背負っていて、自分の試みが手痛く失敗しても誰も助けてくれないという背水の陣で生きている。自分で何でもできる代わりに、他人は一切助けてくれない。

「自由」であるというのは、残酷な世界である。

自分の能力や自分の行動が極限まで試されて、駄目ならばセーフティーネットもなく叩き落とされ、それを「自己責任だから自分で何とかしろ」と突き放される世界だからである。

だから、このリスクの面をあまり深く考えない人がいることに私は驚いている。自由が良いと無条件で思っている無邪気な人に疑問を持っている。自由はタダではない。自由には代償がある。もし、自由を求めるのであれば、リスクをしっかりと分かった上でそれを求めるべきなのだ。

私たちの今の社会は「あらゆる自由を許容する社会」になりつつある。

私たちは、それが「優しくて生きやすい社会」に向かって前進しているようなイメージを持っているのだが、本当は逆ではないのかと思った方がいいのではないか。

自由が許容されることによって責任は社会から個人に転嫁され、リスクは個人が負うことになるからだ。中には抱えきれないようなリスクを負うことすらもあるわけで、それを負うことになる自由な世界は、果たして「優しくて生きやすい社会」と言えるだろうか。

何でもかんでも「自由が良い」と思っている人の気が知れない。個人が手に負えないようなリスクがある場合、規制による不自由でリスクが軽減された方が「優しくて生きやすい社会」なのである。

不自由すぎる社会もどうかと思うが、自由すぎる社会にも私は魅力を感じない。

『自由とは何か 「自己責任論」から「理由なき殺人」まで(佐伯 啓思)』

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