
戦後の日本人は「怒り」を忘れてしまったかのように思える。「怒り」を表に出すことを恐れてしまっているように見える。「怒り」という感情が必要ないと勘違いしてしまっているように思える。そろそろ、日本人は「怒り」も非常に重要な感情であることを知るべきなのだ。それを抑制すればするほど、私たちの存続は脅かされるからだ。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019メディア『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)
「怒り」自体が重要なもの
インターネットとSNSが定着するようになり、人々が自分の意見や主義主張を言えるようになると、国と国の対立、民族と民族の対立、人種と人種の対立、個人と個人の対立が、湧き上がるように表に出てくるようになった。
もう止められない。
これまでは、主義主張を国土の隅から隅まで届けられたのはマスコミしかなかったのだが、今では中学生ですらもInstagramやYouTubeで全世界に「自分の意見」を届けることができる。マスコミよりも早くパブリッシュできる。
そんな世界では、対立もまた燃えさかるのが早い。
人間社会には争いと対立と衝突と不寛容と暴力と破壊に満ちているのは、まわりを少し見回しても、すぐに気付く。
宗教が平和を呼びかけるのは、逆説的に言うと世の中は平和ではないからでもある。社会に法律があるのも、対立と衝突があるからである。私たちの社会に警察が存在するのも、犯罪と不法が満ち溢れているからである。
そして、国連のような組織が存在するのも、国と国の暴力が止まらないからに他ならない。人間社会から対立と暴力が消えないというのは、誰も否定できない。世界がインターネットとSNSでつながった結果、人々の対立はより過激になったのである。
この対立と暴力を生み出す根源的なものは何か。
それは「怒り」である。人間には様々な感情があるのだが、その感情の中には「怒り」という原始的かつ本能的なものがあり、人はそれを消すことができない。
対立や衝突や暴力は誰にとっても悲しい事態だ。だから、誰もが「怒りという感情はない方がいい」と単純に思う。しかし、人間を含め、すべての動物に「怒り」という感情が組み込まれている。
とすれば、生物学的には「怒り」自体が重要なものであると気付かなければならない。
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自分の存在が消されないための戦い
人間の心の中からは「怒り」が消せないが、人間だけでなくライオンでも虎でも熊でも象でも、すべての動物は怒りという感情を持っている。鳥類も、爬虫類も、昆虫も、私たちが知っている生物の多くは「怒り」という感情を持っている。
「怒り」が多くの生物を網羅した普遍的な感情であるということは、それが生物にとっては欠かすことができないものであることを示唆している。
「怒りはない方がいい」と私たちは考える。しかし生物学的に見ると、逆に「怒り」という感情はなくなっては困るから残っていると言っても過言ではない。いったい、何のために「怒り」という厄介な感情が残されているのか。
そもそも、この感情はどんな時に感じるものなのか。それは以下のものであると言える。
自分が不意に攻撃された時、自分の縄張りを侵された時、自分の利益を奪われた時、自分の所有物を取られた時、自分の行動を邪魔された時、自分の存在を否定された時、自分の安心や安全が脅かされた時……。
あるいは、自分が騙された時、劣等感や欠乏感を感じた時、物事がうまくいかなかった時、軽蔑された時、誤解された時、理不尽なことをされた時……。
こうやって生物の中に「怒り」が湧き上がる状況を俯瞰して見ると、あることに気付く。「怒り」を感じる時というのは、安心・安全を脅かされて、自分の存在が消されそうになった時なのである。
「自分の存在が消されそうになる」というのは、自分が殺されるとか、追い払われるとか、心身にダメージを受けるとか、自分の存在が萎縮させられる……という広範囲の状況をすべて含んでいる。
そうなった時、生物は激しく「怒り」を感じ、その状況に立ち向かっていくことになる。「怒り」とは、自分の存在が消されるかもしれないことに対する抵抗なのである。
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なぜ「怒り」が湧き上がるのか?
「怒り」は往々にして闘争本能を伴う。なぜなら、自分を消し去ろうという存在と立ち向かい、戦い、勝ち抜かなければならないからである。
たとえば自分が不意に攻撃された時に怒りを感じないでいると、どうなるのか。為す術もなく殺されてしまう。そして自分の存在が消されてしまう。
自然界で「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」などと言っていたら、殺されてしまうことになる。不意に攻撃されたら生存本能の赴くがまま、怒りを持って立ち向かわなければ生き残れないのである。
自分の縄張りが侵されたら、怒りと共に立ち向かわなければ自分が明日から生命の危機に陥ってしまう。たとえば、自分の家に他人が勝手に上がり込んで追い出されると、明日から自分が路頭に迷って通常の生活が送れなくなってしまうのは明白だ。
縄張りを侵されるというのはそういうことだ。自分の縄張りを守るというのは生き残りのための重要な生存本能なのである。だから、すべての生物は縄張りを侵されることを激しく嫌い、「怒り」を感じ、相手を破壊しようと戦う。
この縄張りというのは「領土」や「国土」をも含んでいる。どこの国の国民でも、自分の領土を侵略してくる相手に対しては激しく憤る。侵略に「怒り」を感じなければ、自分たちの歴史・文化・言葉のすべてが奪われるのである。
利益を奪われるのも所有物を奪われるのも、みんなそうだ。自分の生存のために必要なものを奪われるというのは、自分の生存が脅かされるということなので、「怒り」という感情で激しく戦えるようになっている。
自分の家や土地を他人に奪われそうになった人は、激しい「怒り」を剥き出しにして、死に物狂いで抵抗する。
あるいは、自分の領土や国土を奪われそうになった国民も、凄まじい「怒り」を感じて相手に抵抗する。領土や国土を奪われると、自分の生きる場所もなくなるだけでなく、共同体も、文化も、歴史も破壊されるからだ。
つまり「怒り」とは、広い範囲で自分の生存が脅かされることで生まれる感情だったのだ。
今、日本政府は多文化共生とか言いながら、大量の外国人を日本に移住させているのだが、地域で縄張り争いに似た争いが起きて、それぞれの民族に「怒り」が湧き上がっていくだろう。
多文化共生は「怒り」を誘発させる制度であることを日本政府は分かっていないようだが、それは取り返しの付かない結果を生み出すことになる。
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「怒り」を忘れた日本人の末路
大きな怒りはエネルギーでもある。そのため、怒りを表明できない人間は、怒りを表明する人間に駆逐されることが多い。正当な怒りであれば特にそうだ。
そう考えると自分の感情から「怒り」を消すというのは、実は危険な行為であることが分かるはずだ。
途方もなく長い時間をかけて生き残ってきた生命は、生き残るための重要な感情を「本能」として生命体に組み込んでおり、そこには不必要なものは一つもない。喜びも、楽しみも、愛も重要ならば、「怒り」もまた重要なのだ。
「怒り」という感情が自分の理性とは別のところで湧きあがってくるのも、生命として「怒り」という感情が必要だったからである。
「怒りを消す」というのは、下手すると自分の存在を自分で消すことにつながりかねないものだったのだ。個体レベルで見ると「怒り」という感情が残っているのは正常であることに他ならない。
自分の存続が脅かされる状況にある時、「怒り」がないと生き残れない。私はこれをすべての日本人に問いかけている。
中国・韓国・北朝鮮が私たちの国を意図的に侵略しようとして、毎日のように領海を侵し、不動産を買い漁っている。日本人はなぜ侵略に対して「怒り」を持たないだろうか。
中国・韓国・北朝鮮が私たちの国の歴史を貶めようと工作活動をしていたら、日本人はもっと「怒り」の声を上げるべきなのだ。北朝鮮は私たちの国に工作員を放って、ごく普通に暮らしていた少女を拉致していた。こうした犯罪行為に日本人は黙っていたら「終わり」なのだ。
もし、日本人がここで「怒り」を持たなかったら、私たちの国は最後には侵略されるがままになってしまうと思わないだろうか。
戦後の日本人は「怒り」を忘れてしまったかのように思える。「怒り」を表に出すことを恐れてしまっているように見える。「怒り」という感情が必要ないと勘違いしてしまっているように思える。
そろそろ、日本人は「怒り」も非常に重要な感情であることを知るべきなのだ。それを抑制すればするほど、私たちの存続は脅かされるからだ。
「怒り」を忘れると、私たちは不意に攻撃されるだろう。領土も国も侵されるだろう。資源も利益もすべて奪われるだろう。自由も奪われるだろう。存在も奪われるだろう。歴史も、文化も、言語も奪われるだろう。
「怒り」を忘れることによって、私たちはすべてを失うだろう。それでいいのだろうか。もちろん、いいはずがない。
