SNSという「周囲の目」に縛られ自縄自縛のワナに堕ちる

SNSという「周囲の目」に縛られ自縄自縛のワナに堕ちる
イギリスの人類学者であるロビン・ダンバーは「脳の大きさで形成できる集団の規模がある程度決まる」と喝破した。

そして、人間の場合は平均約150人(100〜230人)が「安定した関係を維持できる個体数の認知的上限である」と算出した。

この「人間関係150人説」はダンバー数として知られており、SNS(ソーシャル・ネットワーク)が主流になった現代社会では常識であるかのように有名になった。

人間には限界がある。しかし、コンピュータには限界がない。だから、テクノロジー企業は人間と人間を無限につなげて金を稼ぐシステムを構築している。

フェイスブックのような「他人とのつながり」をことさら強調するSNSは、ますます一般化している。

そのため、人間は限界を超えて無理に「つながり」を強制されている。そのことにたじろぎ、疲れ、怒りさえも感じるようになっている人もいるが、社会は「つながり」を強調するので、そこから抜けられない。

その結果、SNS上で「自分にとって趣味も関心も合わず、どちらかと言えばどうでもいい人間」たちと、わざわざ結びついて友達のフリをしなければならないような「疲れる時代」が到来したのだった。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

友達がいないと「思われる」ことがマズいと考える

今の時代は「つながり」を強制される時代である。それを拒否すると変人だと思われ、さらにSNSをしないと「友達がいない」と思われる。

今の若者たちの多くは、「友達がいないと思われる」ことを極度に嫌う傾向がある。

「友達がいようがいまいが、そんなことはどうでもいい」と思っている人は、実はかなりいるのではないか。しかし、若年層は、本当はそう思っていてもそれを表に出せない。

「友達がいない」と思われるのは、致命的であると考えるのである。

もっとも「あの人は友達がいない」と思われるのは、若年層だけではなく、ほとんどの世代で良いように思われない。

しかし青年期を過ぎると、次第に仕事や家族が大切になって必然的に友人は減るので、「友達がいない」と他人に思われて蒼白になるようなことはない。

若年層はそうではない。友達がいないと「思われる」ことは致命的なまでにマズいことであると認識されている。

だから、どうでもいいような人間とSNSをしなければならないという義務までもが発生している。SNSは、若者文化の中では、一種の「強制」と化しているのだ。

面白いことに、現代の若年層は今の中高年よりもよほど孤独だ。学校や仕事が終われば、さっさとひとりで家に帰って、部屋に籠もって、インターネットを見たり、テレビを見たり、ゲームをしたりしている。

そこに友達が介在する余地はない。孤独こそが彼らのライフスタイルである。

それなのに、皮肉なことに「友達とつながる」ためのSNSが彼らには必須のツールと化している。SNSは「友達がいないと思われたくない」ために義理で使うツールなのである。

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友達がいないことを恐れているのではない

SNSを心から好きでやっている人もいる。しかし、「友達がいない」と思われるのが嫌でやっている人もいる。また少数の時は楽しめても「つながり」が増えることによって負担を感じる人も多い。

だからと言って増えた人間をむげに切ることもできず、配慮もあるので新しい申請も断れない。だから、気疲れもすれば心も病んでしまう。かなり無理をしているのだ。

それでも、彼らはSNSを止めない。「友達がいない」とレッテルを貼られるのは恐怖だからだ。「友達がいない」ことを恐れているのではない。友達がいないと「思われる」ことの方を恐れているのだ。

本人はひとりの方が気が楽だと思っている。しかし、友達がいないと思われれば、負のレッテルを貼られる。彼らはそれを極度に恐れる。

結局、若者たちが恐れているものの正体は、SNSという名の「周囲の目」であることが分かる。

周囲の目……。

SNSが強制のようになってしまっている今の若者たちは、現実よりも「SNS=周囲の目」の方を恐れ、未だかつてないほどに圧力をかけられている。

いつの時代でも誰でも「周囲の目」を気にするが、インターネットとスマートフォンによって「つながり」から逃れられない現代社会では、その「目」の強さが尋常ではない。

SNSは、もはや人間の限界を超えるところまで「つながり」を強制し、ダンバー数などとっくに超越した友達数によって人間を縛るようになっているのだ。

「つながり」を徹底的に追求し、世界規模で成功し、もはやそこから逃れられないほど人間関係で縛ったのがフェイスブックというモンスター企業である。

フェイスブックは別に悪意を持ってそれをやっているのではない。しかし、あまりにも人間関係を「見つけてつなげる」ことに効率的すぎて、存在そのものが驚異になった。

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評価されるキャラクターを演じることになる?

すべてのSNSは、あまりにも効率的に人々をつなげるようになり、それを世界規模で行うようになった。

人間はもともと「他人とつながりたい」という強い欲求もあるので、SNSによって人々がつながるというのは責めるべき機能ではなく、むしろ賞賛すべき機能でもある。

しかし、インターネットとスマートフォンが作り上げた全世界のネットワークはあまりにも効率的すぎて人間に大きな負担と圧力をかけるようになっている。

人々はいつも反応(レスポンス)を求められ、また自分自身の生活や人生そのもののアウトプットも求められている。

しかし、単調で面白くもおかしくもない自分の人生を素のまま晒すことはできない。他の人が充実している中で自分だけ平凡では惨めでわびしく見栄が許さない。

だから、仕方なくSNSにアップするためだけに「いかにも充実しているような写真」を必死で撮ってアップする。SNSという「周囲の目」にとらわれているのだ。

「充実していない」というのは「見込みのない人間」と断定されて評価されないので、自己防衛のために、素の自分を隠してキャラクターを作るしかない。

では、それが成功しているのかどうかは、どうやって判定するのか。

それも「周囲の目」なのである。SNSはそれが数字として表れる。SNSのワナに堕ちると、とことん縛られていくようになっていく。自縄自縛だ。

「明るく誰からも愛される」「友達がたくさんいる」というのが自分自身の評価につながるのであれば、誰でも素の自分を偽って「充実しているフリ」をする。

その結果、若者たちは異様なまでに「周囲の目」を気にするようになり、素の自分を殺し、自分を隠し、本音を飲み込み、評価されるキャラクターを演じることになる。

本来であれば、親しい人たちをつなげる素晴らしい機能は、行き過ぎると「SNS=周囲の目=監視の目」となって人々を縛りつけていくのだ。

本来であれば、親しい人たちをつなげる素晴らしい機能は、行き過ぎると「SNS=周囲の目=監視の目」となって人々を縛りつけていくのだ。

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