ゴミが、山に、空き地に、海に捨てられ、地球のありとあらゆる場所がゴミまみれに

ゴミが、山に、空き地に、海に捨てられ、地球のありとあらゆる場所がゴミまみれに

モノを作るために環境破壊し、モノを破棄するために環境破壊する。つまり、人類は巨大消費経済の中で、二重の意味で自然破壊をしているということになる。俯瞰して見ると、ひどく滑稽だ。キレイな環境を望みながら、自分の住む環境を破壊しているのだから。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com

ゴミが山に捨てられ、空き地に捨てられ、海に捨てられる

あまり知られていないのだが、対馬が中国や韓国から流れ着くプラスチックのゴミで埋もれてしまい、もはやそれを処理する能力の限界を越えてしまった。対馬だけでなく、日本海側の海外の多くは韓国などから流れ着くゴミで海岸が汚れていく。

日本海は中国・韓国のゴミ捨て場と化しているのである。今後、このゴミ問題はもっと深刻化していき、日本海側の海岸の多くはゴミ海岸となっていくだろう。

海岸がゴミで埋もれていくのは日本だけではない。フィリピンのビーチも、タイのビーチも、インドネシアのビーチも、遠くハワイも、海洋のプラスチック・ゴミで埋もれている。もはや人類にとって海はゴミ捨て場なのかもしれない。

世界中の至るところで「ゴミ問題」が深刻化して止まらない。大量生産・大量消費・人口増加が大量のゴミを生み出し、そのゴミが山に捨てられ、空き地に捨てられ、海に捨てられ、ありとあらゆる場所がゴミまみれと化している。

現代社会にはモノが満ちあふれている。現在は企業の競争が世界規模になっており、それぞれの企業が大量にモノを生み出している。

ありとあらゆるモノが大量に満ちあふれ、作り過ぎて「売れない在庫」になったモノも多い。少し機能改善されたら、旧製品は瞬く間に売れなくなる。他社が少し改善したものを出すと、やはり売れなくなる。

さらに、競争の激甚化によって新製品を出すサイクルも極端に早くなり、1年前の製品はすぐに時代遅れになる。その途端に旧製品は一気に売れないモノとなる。

売れなくなったモノはどうするのか。ほとんどはゴミとして破棄されるのだ。中にはリサイクルされるものもあるが、大半は破棄される運命にある。

効率化と合理化は必然的に過剰生産を生み出し、すべての分野で、売れないモノで満ちあふれ、それは最終的にゴミになる。まさに人類は地球をゴミまみれにする社会を作り上げているということになる。環境を破壊して、ゴミを大量生産しているのが現代文明の姿だ。

【金融・経済・投資】鈴木傾城が発行する「ダークネス・メルマガ編」はこちら(初月無料)

大量生産という仕組みで、徹底的に自然が収奪

私たちは資本主義の中で熾烈なビジネス間の競争をして、その競争に勝ち残らなければ生き続けていけない。そのためには効率性を追求して、どんどん商品を作り続けなければならない。

大量生産のシステムをはじめて生み出したのはアメリカのフォード社だったが、それはまたたく間に他企業にも取り入れられ、大量生産の「基礎」となった。

ところで、大量生産に使用するすべての素材は、この地球上の自然から取り出される。どんな物を作るにしても、それは自然に存在する素材が、その分だけ採掘されて消費されるということでもある。

小さな消費では何の問題もない。しかし、システマチックな大量生産は、大量の素材が必要であり、素材の採掘が必要になるということである。大量生産という仕組みで、徹底的に自然が収奪されるのだ。

皮肉なのは、それだけ自然を収奪して生み出したものなのに、大量生産して売れなかったら、それが大量のゴミとなって燃やされたり、捨てられたりして有害物質をばらまいて、そちらもまた環境破壊に直結することだ。

モノを作るために環境破壊し、モノを破棄するために環境破壊する。

つまり、人類は巨大消費経済の中で、二重の自然破壊をしているということになる。俯瞰して見ると、ひどく滑稽だ。キレイな環境を望みながら、自分の住む環境を破壊しているのだから。

しかし、人類は資本主義を選択した以上、それを止めることができない。資本主義は、儲けるためにモノを売るのが基本であり、それに成功した人間が勝者となる世界である。

全世界の人間がひとり残らずその「競争」に参加したことによって、人類はうなりをあげて環境破壊する道に突き進むことになった。

【ここでしか読めない!】『鈴木傾城の「ダークネス」メルマガ編』のバックナンバーの購入はこちらから。

安全性よりも効率性が優先された結果どうなったか

巨大消費経済では世界を相手に激烈な競争が発生し、過酷なコスト削減競争をしなければならないので、その過程で犠牲になるものも多い。

たとえば、安全性の確保よりも効率性が優先されるので、単に便利だという理由だけでフロンガス等が使われた。その結果どうなったのか。オゾン層の破壊が致命的なまでに進んでしまった。

物を作る時に出た排水を浄化するにもコストがかかる。そこにコストをかけるよりも、黙って排水したほうが企業には都合がいい。一部の企業はそれを実行し、その結果、食物連鎖で人間に被害が還っていった。

現在、産業廃棄物を垂れ流し、国民の健康被害が続出している「中国」は、現代文明の勝ち組だと思われている。しかし、莫大な自然破壊を加速しながら巨大消費経済の競争に邁進した中国の国土荒廃は際立っている。

他の国が中国の安価な製品に打ち勝つにはどうすればいいのか。簡単だ。同じことをすればいい。安全や浄化を無視して、コスト削減のために汚染を垂れ流せばいい。

経済は自然よりも優先される。これは資本主義の鉄則である。中国は忠実にそれを実行して、猛烈な大気汚染、水汚染、砂漠化などの環境破壊に見舞われてツケを払うことになった。

なぜ、そこまでして経済成長が必要なのか。

もちろん、それは競争に負けると生きていけないからだ。競争に敗れると自分が食べていけなくなる。誰にとってもカネは必要だが、だからこそ競争は止まらなくなる。国民を豊かにするために、国も競争を鼓舞する。

競争し続けなければならないというのはどういう意味なのか。それはますます苛烈になり、さらには自然破壊も進むということだ。資本主義では遅かれ早かれ、何らかの自然破壊が生み出される仕組みになっている。

ダークネスの電子書籍版!『邪悪な世界の落とし穴: 無防備に生きていると社会が仕掛けたワナに落ちる=鈴木傾城』

人間はどうやって生きるつもりなのだろうか?

想像を絶するスケールとスピードで自然破壊が進んでいる。その自然破壊は「大量にモノを作るための自然破壊」と「大量にモノを捨てた結果の自然破壊」の両面から成り立っている。どちらの自然破壊も深刻だ。

森林などの自然が破壊され続けていくと、再生する能力を失って砂漠になっていく。それは誰もが知っている。

古代文明を見ても分かる通り、文明が栄えたところは、やがて砂漠となって打ち捨てられている。古代文明が捨てられたのは、周辺の自然が集まった人によって伐採が大規模に行われ、水も汚染され、住環境が破壊されたことによって起きている。

古代文明に起きたことが、現代文明に起きないという保証はない。戦争による大量殺戮も絶えないように、人類は同じ過ちを何度も何度も繰り返す。古代文明が自然破壊で滅んだというのであれば、現代文明も自然破壊で滅んだとしても何の不思議もない。

現代文明とは巨大消費経済によって全世界がつながった状態だ。

破壊は地球レベルで為されるのだから、地球の破壊は過去のどの期間よりも深刻であるとも言える。世界が大量生産と消費でつながっている以上、トラブルと衰退も同時に起きるからだ。

今後、環境の悪化はさらに上のレベルに到達する。人口は爆発的に増えたまま、環境が破壊され尽くして身動きが取れなくなる。逃げ場はどこにもない。巨大消費経済は人間を幸せにしないばかりか、いずれ地球を破滅する。巨大消費経済は「人間の滅亡を加速させるシステム」だったのである。

そのシステムは、今のところ止まる気配はまったくない。まさに暴走していると言ってもいい状況になっている。問題が分かっても、止められないし止まらない。臨界点を超えた時、人間はどうやって生きるつもりなのだろうか。

人類は総力をあげて環境を破壊し、ゴミを大量生産しながら、最後まで行き着くしかないのだろうか?

『環境破壊図鑑 ぼくたちがつくる地球の未来(藤原 幸一)』

鈴木傾城のDarknessメルマガ編

CTA-IMAGE 有料メルマガ「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」では、投資・経済・金融の話をより深く追求して書いています。弱肉強食の資本主義の中で、自分で自分を助けるための手法を考えていきたい方、鈴木傾城の文章を継続的に触れたい方は、どうぞご登録ください。

自然破壊カテゴリの最新記事