多様性を主張する人は、多様性を認めない人を排除して多様性を喪失させるのだ

多様性を主張する人は、多様性を認めない人を排除して多様性を喪失させるのだ

「多様性」や「共生」が唯一絶対の教条となった人間たちは、その教条のみを信じるカルト教団の信者みたいなものなので、自分たちの主張に合わない人は最終的には排除せざるを得ない。グローバル化や多文化共生を押しつける社会は、それを認めない人を認められないのだ。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

世界はつながって、混乱と対立がネットで増幅された

世界的にはグローバル化が進み、国内的には多文化共生が進んでいる。これによって起きているのは、民族対立と、人種対立と、宗教対立と、軍事対立と、領土対立と、文化対立と、経済対立と、歴史対立と、イデオロギー対立である。

グローバル化は欧米の多国籍企業が経営の効率化と利益の極大化のために取り入れたものだが、これが世界全体に急激に広がっていったのが、ここ30年ほどの社会の動きであったと言える。

「グローバル化や多文化共生はオープンな社会を生み出し、それは最終的には人類の平和や安定に結びつく」と喧伝された。だから、当初はこのグローバル化や多文化共生による社会の変革は好ましいものとして手放しで歓迎されていた。

しかし、現実はどうだったのか。

グローバル化や多文化共生の中で多様性を認めようとする動きは、その底辺で徐々に緊張を生み出すものになっていた。平和や安定どころか混乱と対立が生まれ、それが積み重なって社会を極度に不安定化させている。

「協調」を謳っていたはずのグローバル化や多文化共生なのに、なぜこんなことになったのか。 実は「多様な意見をすべて認めて、多様性の中で共生する」というグローバル化や多文化共生の概念は、大きな矛盾を内包するものだったのだ。

別の言い方をすると、多様性を認め合うというのは、実は「別の差別」を生み出すものだったからである。

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「日本は日本人のもの」と思っている人は排除?

グローバル化や多文化共生の信奉者は今も大勢いる。こうした人々は「人間はみんな違って当然。だから相手の違いを認めて共生できる社会にしましょう」と述べて、これを社会に押しつけていく。

ところが、この「相手の違いを認めて共生」という時点でもう無理だったのである。

すべての人を受け入れるというのであれば、「違う人種、宗教、文化の人と暮らすのは絶対に嫌だ。同じ人種、同じ宗教、同じ文化の人たちとだけ仲良くやりたい」という人をも取り込むことになる。

つまり、自分たちとは真逆の意見を持つ人たちを受け入れることになる。すると、どうなるのか。多様性を受け入れる社会では、多様性を受け入れたくない人と常に激しい対立や衝突を繰り返すことになる。

「日本は日本人のもの」と思っている人は気を付けた方がいい。

多文化共生を進める社会、すなわちグローバル化が進む社会では、自国を愛し、自国の宗教を愛し、自国の文化を愛する人を「狭量だ」「差別だ」「排外的だ」と言って排除(キャンセル)するからだ。

逆に「日本は日本人だけのものではない」と言う人は賞賛される。

反論は許されない。「違う人たちを認める」と言いながら、グローバル化や多文化共生の信奉者はそれに賛同しない人を排除するのだ。これが排除文化(キャンセル・カルチャー)を生み出す元凶となっている。

「多様性を認め合うというのは、実は別の意味の差別を生み出す」というのはそういうことだ。「相手の違いを認めて共生しよう」と言う人は、多様性を認めない人を差別するのである。

ただ差別するだけではない。多様性に疑念を持つ人には「差別主義者」だとか「レイシスト」と罵って差別する。「相手の違いを認めて共生しよう」という人が、他人を口汚く罵って差別するのだからブラックジョークである。

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自分たちの意見と反対のものは、とたんに排除する

グローバル化や多文化共生の元になっている「多様性を認め合う」というのが、いかに矛盾に満ちた絵空事の論理であるのかが分かる。

もちろん、多様性のある社会であった方がいいのだが、それを「唯一絶対の教条」にしてしまうと、多様性よりも単一性が好きな人間を排除してしまわないといけなくなるのだ。そうしないと多様性が脅かされるからだ。

グローバル化やら多文化共生を押しつける社会の中では、「多様性を認める」と言いながら、本当のところはそうではない。

興味深いと思わないだろうか。

「多様性を認める」「多様な意見を認める」と言いながら、いざ「多様な意見」を持った人が出てきて、それが自分たちの意見と反対のものだったら、グローバル化や多文化共生の信奉者は途端にその意見を封じ込んでしまうのである。

多文化共生が理解できない人間は「出ていけ」と言わんばかりだ。実際、多文化共生反対のデモの中では、カウンター側から「出ていけ」という言葉が飛び交う。多様性を言う人間が「出ていけ」とわめくのだから自己矛盾も甚だしい。

しかも、彼らは「自分たちが多様性を排除した」という自己矛盾に気付いていない。「多様性を認めない人間は要らない」と、排除したことを勝ち誇るのだ。

本当に多様性を認めるのであれば、グローバル化や多文化共生を認めない人間の意見も尊重するはずだ。しかし現実は、そういう「反グローバル化」「反多文化共生」の人間がキャンセルされる。

ここから何が見えてくるのか。

それは「多様性を認める」というのはただの理想や建前であるということだ。多様性を認めるという社会でも、自分たちと相反する意見を持つ人は排除する。自分たちとは真逆の意見を持つ人間は追い出す。認めない。そして許さない。

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それは「新たな差別や排除」を生み出す動きであると捉えよ

つまりグローバル化や多文化共生の信奉者は、「多様性」だとか「共生」だとか、しきりに「きれい事」を言っているのだが、真の意味での多様性を実現できない。

ある意味、これは当然の帰結である。「多様性」や「共生」が唯一絶対の教条となった人間たちは、その教条のみを信じるカルト教団の信者みたいなものなので、自分たちの主張に合わない人は最終的には排除せざるを得ない。

グローバル化や多文化共生を押しつける社会は、それを認めない人を認められないのだ。大事なことなので、この意味をよく考えて欲しい。グローバル化や多文化共生に疑問を持ったら排除されるのが今の世の中なのである。

何のことはない。結局は「都合の悪い人間」は排除されるのだ。共生など絵空事である証拠である。

多文化共生と言っても、自分たちの存続を脅かす存在があれば、それは排除しないと自分たちが自滅する。彼らは自滅しないために排除を選ぶ。自分たちと異なる意見の者とは共生できないのは明白なのでキャンセルする。

そして多文化共生の社会は、反・多文化共生の人間を排除することを賞賛する。

多様性を認めるというのは、ある種の欺瞞と矛盾で成り立っているというのが現実だと分かる。社会が指し示す方向性と違った概念を持ったら、結局のところあらゆる理由を付けられてキャンセルされる。

多様性や多文化共生は「差別や排除をなくしていく動き」だと捉えてはいけない。それは「新たな差別や排除」を生み出す動きであると捉えなければならない。

グローバル化に邁進する社会、そしてその中で多様性や多文化共生を理想として突き進んでいく社会の中では、それに反する人間は「反社会的な人間」と定義されて排除される。分かりやすく言えば「邪魔者は消される」のだ。

つまり、保守的な考え方を持つ人たちは、これからより強固になっていくグローバル化の中では「反社会的な人間」として排除される対象になるということである。そんな社会の構図を私たちはきちんと認識しているだろうか?

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