日本の伝統文化は意図的に奪われ、私たちはかつての日本人の後継者ではない?

日本の伝統文化は意図的に奪われ、私たちはかつての日本人の後継者ではない?

GHQの徹底的な日本の精神性破壊で、1945年8月15日に伝統文化を継承していた日本人は死んで、今は「日本人だと勘違いしている人」が住んでいるようなものである。日本の精神は意図的に奪われたので、こんなことになってしまった。それは、まだ取り返せるものなのだろうか……。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

伝統や文化は精神性の継承だが、それは継承されたか?

伝統や文化と言うのは精神性の継承だ。建物や衣服や食は時代や風潮を現したものであって、伝統や文化の本質ではない。

たとえば京都の龍安寺の石庭や「吾只足知」の蹲(つくばい)などは、禅の精神性を具現化したものである。この場合で言うと、「吾只足知」の思想が重要であり、蹲自体は重要ではない。

また、日本には神道や仏教があり、これらを具現化したものに寺院があり、仏像がある。重要文化財になるような物も数多くあり、多くの人が「見学」に来ている。

しかし、重要文化財という目に見える「形」を見るのではなく、その裏側を見なければ、いくら仏像や寺を見たところで何の意味もない。最初に思想があって、その思想を具現化するために形ができ、精神性が培われる。大切なのは建物ではない。

思想や精神性というのは形がない。だから分かりにくい。しかし、形がなくてもそれが最初になければならない。そういう目で、現代の日本人が本当にかつての日本の文化を受け継いだのかどうかを見てみると、まったくそうではない。

現代の日本人は、ほとんど誰も神道も仏教など信じていない。寺院を中心とした共同体も消滅した。新興宗教が金儲けするか、葬式屋が戒名で商売するために頑張っているくらいだ。

伝統は精神性と共に受け継がれていないのであれば、物体や行事が残っていてもそれはただの箱である。寺院や伝統行事は、いまやインバウンド用の観光地であり、禅はただの石庭であり、仏像はただの彫刻だ。

一年に一度、初詣に出かけたとしても、それはかつての日本の伝統文化に感謝し、継承するために行ったのではなく、単に遊びに行ったに過ぎない。なぜ、そうなのか。そこに精神性がないからだ。

かつての日本文化を象徴していた神道や仏教などの宗教は、かろうじて行事的なものがいくらか残ったが、完全に形骸化して日本人が生き方に迷った時に寄り添うものではなくなってしまったと言える。

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GHQの政策で日本の伝統文化は継承されなかった

タイやスリランカで人々が信仰する仏教文化の敬虔さは、もう日本には残っていない。良い悪いは別にして、かつての日本と今の日本は伝統や文化の奥底にある思想が変質して、まったく違う国になったとさえ言える。

伝統や文化に根ざした価値観も、歴史に培われた宗教心も、きちんとした道徳も、倫理観も、あらゆるものを日本人は捨て去ってきた。そういう意味で、昔の日本人と今の日本人はもう完全に違う「人種」になった。

日本の伝統や文化が根源的に捨てられるようになったのは、言うまでもないが1945年の敗戦以後である。日本占領の連合国最高司令部(GHQ)は強靭な精神力を持った日本軍の奥底には、神道や仏教があったと考えていた。

だから、GHQは日本の伝統文化を抹殺するために徹底的な施策を行った。二度と日本人が立ち向かって来ないように。国がボロボロになっても、青くなって尻込み、逃げ、隠れるだけの国民にするために。

彼らはまず国家と宗教、政治と宗教を分離し、公教育の場から宗教教育を完全に排除させ、国家や地方自治体が宗教儀式を行うことを禁止した。政府が神道や仏教を支援することも、保全することも禁じた。これが「神道指令」と呼ばれるものである。

そしてGHQは、教育の現場からも伝統や文化に根ざした価値観を持った教師を根こそぎ解雇・追放して、子供たちが宗教から遮断されるようにした。この時、明確な標的になった科目が「修身」と「国史」である。

修身というのは日本人を日本人たらしめていた「道徳」である。教育勅語も教育の現場から消された。そして、正しいお辞儀の仕方や正しい言葉遣いも教育の現場から消された。

以前から肘を左右に突き出して腹を押さえてお辞儀をする奇妙で薄気味悪いお辞儀が日本を覆い尽くして問題になっているのだが、こうした下品なお辞儀が定着していく根源的な原因は、1945年に「修身(道徳)」という科目が消されたからである。日本人はお辞儀すらも正しい形が分からなくなっているのだ。

日本の伝統文化を体現した教師たちが消えた代わりに入ってきたのは、共産主義や左翼思想にかぶれた教師たちであった。自国の国旗や旭日旗に誇りを持てない教育をされたのも、GHQの伝統文化を抹殺する方針からである。

今の日本人は、日の丸の国旗を持って歩くことすらできないし、祝日に日の丸を自宅の玄関に掲げることもできない。日の丸が怖い自虐的な国民にされてしまったからである。

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日本の伝統文化は意図的に奪われて、こうなった

GHQが抹殺した「国史」というのは日本の歴史を教える教育である。1945年以後の日本人は、日本の伝統文化に根ざした日本人目線の日本史も教えられることがなくなってしまった。

その代わりに左翼・共産主義者に共鳴する教師が教えたのは、ひたすら日本人は悪いという「自虐史観」だったのである。

GHQは日本の「国史」を完全に抹殺するために、日本史を描いた書籍や、日本の伝統文化に関する書籍や、武士道を伝えている書籍や、愛国心を謳う書籍や、大東亜共栄圏を解説した書籍や、欧米の植民地の実態を描いた書籍などを秘かに排斥・没収し燃やしていった。

要するに、日本人の伝統文化・日本人の精神性・日本人が語る日本史は、ことごとく歴史の闇へと消し去られていったのだ。

日本人が愛国心という言葉を嫌うようになったり、日の丸を掲げるのを嫌うようになったり、まともな日本の歴史が分からないで中国・韓国・北朝鮮の歴史戦に言い返せなかったり、神道や仏教の伝統的価値観から逸脱してしまったりしているのは、別に不思議なことでもなんでもない。

それらは意図的に消されたからなのである。

もちろんGHQの徹底的な日本文化の破壊に抵抗して、とにかく日本の伝統文化を守り、愛国心を守り、修身を守り、国史を継承しようと努力する人は大勢いた。彼らは「右翼」として生きることになる。

しかし、時代が進めば進むほど自虐史観で洗脳教育された若者たちが「右翼」に拒絶心を持つようになった。教育の現場からGHQの国史抹殺が進められた結果、愛国心や日本の伝統文化を守ろうとする「右翼」は悪だという認識となったのだ。

かくして、右翼もまた日本社会から封殺されるようになった。いまや日本人はどんなに愛国心を持った人であっても「私は右翼だ」と堂々と言える人は少ない。逆に必死になって「右翼ではない」と否定する。

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日本人の精神性は1945年に淘汰されたのか?

日本の伝統文化(特に実戦的な武士道の世界)を継承して独自の世界を持っていた任侠人たちも、どんどん社会から排除されるようになっていった。任侠人たちは、もともと荒くれ者たちの集団である。

かつての日本社会は、こうした荒くれ者たちとも共存していて、関所の見張り番や催事や祭りの担い手や火事や災害などで真っ先に飛んでいって現場を収める団員として互いに持ちつ持たれつだった。

荒くれた若者は任侠の世界が取り込んで、「弱きは助け強きを挫く」という精神を叩き込み一人前にしていった。「弱きは助け強きを挫く」は、まさに武士道や仏教がまいなぜになった伝統文化の継承でもあった。

かつての関所などは日本全国から掟破りが通り過ぎる。ここに任侠たちに任せ、任侠たちは座を取り仕切っていた。その座が役座(やくざ)であったのだ。

しかし戦後になったら、社会が日本の伝統文化を捨て去り、任侠の精神もまた顧みられることもなくなり、社会は彼らを追い込んだ。当然、彼らも「社会が我々を拒絶するならば、我々は任侠を捨ててやりたいようにやる」と開き直る。社会は彼らを「暴力団」と呼んで、ますます忌み嫌うようになった。

任侠人たちが仁義を捨てて暴力団と変質していったのは、戦後の日本社会から排除されていく中で、彼らが八方塞がりで生き残るためでもあった。

それと同時に、やはり「日本の伝統文化を頑なに継承して、さらに日本の実戦的な武士道の精神性をも保持する存在を消し去りたい」という社会の空気もあったとも言える。社会そのものが任侠と共存することに背を向けたのである。

かくして、「日本」は元の姿とはまるで違うものになっていった。別の言葉で言い直せば、1945年8月15日に伝統文化を継承していた日本人は死んで、今は「日本人だと勘違いしている人」が住んでいるようなものである。

日本の精神は意図的に奪われたので、こんなことになってしまった。

伝統文化とは精神性を受け継ぐものである。しかし、伝統も、文化も、宗教心も、道徳も、倫理観も、民族の誇りも、あらゆるものを日本人は1945年の敗戦で奪われたのだから、私たちはかつての日本人の後継者ではないと自覚する必要がある。

日本人の精神性は、すでに1945年に淘汰されてしまったのだろうか。それとも、まだ取り返せるものなのだろうか……。クリスマスだか何だかで浮かれている人たちを見つめながら、私はひとりで街を歩く……。

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