「規制をかけない」「自由競争を重んじる」の二点は残酷な結末を生み出す要因に

「規制をかけない」「自由競争を重んじる」の二点は残酷な結末を生み出す要因に

経済格差を生み出す社会の閉塞感は、個人のテロとなってポツリポツリと現れているのだが、最終的には貧困層による「自暴自棄の襲撃」や「テロ」は日本でも珍しくなくなると私は考えている。富裕層や上級国民、あるいは弱者を嘲笑する文化人などが暴力のターゲットになる。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

学生が爽やかにフェアに青春を賭けるようなイメージ?

自由という言葉の持つイメージはとても爽やかだ。そして、競争で結果が決まるというのはとてもフェアだ。だから、自由競争と言われたら、若い学生が爽やかにフェアに青春を賭けるような、そういうイメージになる人が多い。

そういうイメージの中で、新自由主義とか言われ「政府などによる規制を最小化して、自由競争を重んじよう」とか言われると、それは素晴らしいなという感想を持つ人が大半になる。

しかし、そこにワナがある。

「規制をかけない」のと「自由競争を重んじる」の二点を、極限にまで突き詰めるとどういうことになるのか。それは、爽やかでもフェアでもなく、極度に残虐で凄惨な光景を生み出す原因となっていくのである。

どういうことか? たとえば、スポーツは「大人vs幼児」のような、最初から勝負が分かりきっているような組み合わせを禁止する。どんなに力の強い3歳児がいたとしても、大人と戦ったら為す術もなく叩きのめされて死ぬ。

「大人vs幼児」のような組み合わせをしないのは、惨劇を避けるためである。それを不服として、大人が「自由に勝負させろ」と叫んでいたら、どうかしていると思われるはずだ。

しかし、それはスポーツの世界だからどうかしていると思われるだけで、実社会ではそのあり得ない競争が行われる世界なのである。

【金融・経済・投資】鈴木傾城が発行する「ダークネス・メルマガ編」はこちら(初月無料)

落ちこぼれた人間には金すらも出したくない政府

「大人vs子供」はありえないが、零細企業と超巨大グローバル企業との競争はあり得る。零細企業と超巨大グローバル企業が国籍を超えて無理やり競争するのが資本主義のルールである。

巨大な者が「もっと自由に競争させろ」という時は、「弱者を叩きつぶす自由をくれ」という意味なのである。

「どんどん競争させろ。競争のルールは必要最小限にしろ。弱い者がどうなったところで知ったことではない」

これが資本主義を拡大解釈した「弱肉強食の資本主義」の正体である。これまでどこの国の政府も自国の産業や企業を守るために外国の超巨大グローバル企業には関税やビジネスの規制をかけていた。

しかし、「規制をかけて外国企業を排除するのはフェアじゃない」「自由に競争させないのはフェアじゃない」ということで、国家が自国企業を保護するための縛りはどんどん撤廃させられていき、弱肉強食の資本主義が社会を覆い尽くすようになっていった。

それが「新自由主義」という、何だかとても爽やかでフェアに聞こえる言い方で進められていったのだ。日本も2000年年代に入ってから、この新自由主義が小泉政権下で組み入れられて「改革」という名で浸透していくようになった。

自由な競争が正しいとされて、競争に敗れた企業は潰れていくのも当然という考え方がはびこるようになった。そして、この自由な競争の結果として、企業は「どれだけ成長して株主に報いたか」が存在価値のすべてと化した。

その結果、ひたすらコスト削減に邁進して利益を株主に還元するROE経営が基本となって、従業員は非正規雇用者に入れ替えられるようになっていった。従業員は売上が減っても不況が来ても容易にクビを切れないが、非正規雇用であればいつでもコスト削減のためにクビが切れる。

ギリギリまで労働者を削減したら、その分だけ株主の利益は上がる。それは株式を保有する上級国民にとっては「素晴らしいこと」以外の何者でもない。

【ここでしか読めない!】『鈴木傾城の「ダークネス」メルマガ編』のバックナンバーの購入はこちらから。

努力しても這い上がれない社会が来ている

企業も国民も勝手に自由に競争しろ。負けたら自己責任……。それが新自由主義的のやっていることであった。当然、一部の勝ち組が利益を総取りする社会が誕生するわけで、格差は極度に開いていく。

弱者が増えてもどうでもいい……。
落ちこぼれた人間は自己責任なので放置する……。

その結果、高齢者も、障害者も、シングルマザーもみんな追い込まれて、生活保護受給者は大幅に増えることになった。幼児が大人になぶり殺しされるような目に今の日本国民は遭遇している。

「規制をかけない」のと「自由競争を重んじる」の二点は、実は残酷な結末を生み出すということに日本人は気づかなかった。気づいていたら反対していたが、爽やかでフェアなイメージで騙されてしまったのである。

それは爽やかでもフェアでもなく、単に弱肉強食だったのである。

規制撤廃と自由競争を取り入れればそうなることは、はじめから分かっていた。なぜなら、資本主義の総本山だったアメリカがそうなったからだ。

アメリカではレーガン政権がこの市場原理主義を推し進めた結果、1%の富裕層と99%の低賃金層という超格差社会を生み出して、今でもその格差の分離は広がっている。今も止まっていない。日本がアメリカの後を追っているのであれば、日本もそうなって当然なのである。

すでに平均年収186万円の低所得層は日本で1200万人ものボリュームとなっているのだが、彼らは満足な給料がもらえない非正規雇用を転々とするしかなく、どんなにも働いても豊かになれない状況が常態化してしまう。

貧困が固定化するのは、次の5つの要因がある。

1. 生活に追われ、疲れて何も考えられなくなる。
2. 低賃金で自分も子供も教育が受けられなくなる。
3. 貯金を含め、あらゆるものが不足してしまう。
4. 這い上がれない環境から自暴自棄になっていく。
5. 社会的影響力もなく、権利も保障されない。

いったん貧困に堕ちると、この5つの要因が同時並行で始まっていき、その中で押しつぶされてしまう。日本の底辺もこの5つの要因にがんじがらめにされて、這い上がるのが絶望的に難しい社会になっているのである。

ダークネスの電子書籍版!『邪悪な世界の落とし穴: 無防備に生きていると社会が仕掛けたワナに落ちる=鈴木傾城』

暴力の行使は何も持たない人たちの唯一の武器となる

働く人たちの4割はもう非正規雇用者となっている。2000年から、この流れはずっと変わっていない。だから、格差はとめどなく開く。そして経済的な格差が固定化されると、富裕層と貧困層の超えられない一線ができる。

人々は分離し、この両者は次第に違う文化を生きることになる。

暮らす場所も、食べる物も、通う学校も、遊ぶ場所も、付き合う人も、すべて違っていく。そして、この両者は互いに相手に無関心になり、話す言葉すらも違っていくようになる。

多くの先進国で富裕層が住むゲートタウンと貧困層が住むスラムが存在するのだから、日本もいずれはこれらが生まれてもおかしくない。「自由な競争」という爽やかな言葉によって、それは進んでいくのである。

これを是正するのが政府という存在なのだが、いまや政府は上級国民の御用聞きみたいな存在となってしまっているので、富裕層の都合良い政策を作る時だけ機能し、貧困層のためには機能しない。

それではトリクルダウンがあるのかというと、そんなものもない。トリクルダウンというのは「資産家や大企業を先に豊かにすると、富が国民全体にトリクルダウン(滴り落ちて)、経済が成長する」というものだ。

結果を言うと、資産家や大企業が先に豊かになって彼らが富をより独占するので、貧困層はより貧困化したというのが現実だったのである。

状況はますます絶望的になりつつある。

そうした閉塞感は、個人のテロとなってポツリポツリと現れているのだが、最終的には貧困層による「自暴自棄の襲撃」や「テロ」は日本でも珍しくなくなると私は考えている。富裕層や上級国民、あるいは弱者を嘲笑する文化人などが暴力のターゲットになる。

正当な生き方では勝ち目がないのであれば、自暴自棄の襲撃やテロなどの暴力の行使は、何も持たない人たちの唯一の武器になるからだ。もはや暴動や革命で社会が転覆する以外に現状を是正する方法はないと貧困層が気づいたら、その方向に社会は動いていく。

『邪悪な世界の落とし穴』
『邪悪な世界の落とし穴 無防備に生きていると社会が仕掛けたワナに落ちる(鈴木傾城)』

鈴木傾城のDarknessメルマガ編

CTA-IMAGE 有料メルマガ「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」では、投資・経済・金融の話をより深く追求して書いています。弱肉強食の資本主義の中で、自分で自分を助けるための手法を考えていきたい方、鈴木傾城の文章を継続的に触れたい方は、どうぞご登録ください。

資本主義カテゴリの最新記事