集中できるのとできないのとどちらが有利なのかと言われれば、もちろん集中できる方が社会的にも有利に決まっている。この「集中力」が人間的な能力向上の重要な要素であることは、今さら分かったことではない。しかし、現代社会は集中力を奪う社会になっている。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)
集中するあまり他のことがすべて疎かになったベートーベン
人間の知的能力を向上させるためには集中力が必要不可欠である。猛烈な集中力が手に入ると、人間は天才的な能力を手に入れることが可能になる。勉学、芸術、競技、仕事、実務……。集中力によって成し遂げられるものは非常に多い。
ベートーベンは1802年にはもうすでに聞こえなくなっていたことが様々な伝承で分かっている。実際には20歳頃から徐々に聴力を失いはじめ、28歳には高度難聴の域に達していた。
しかし、ベートーベンが名曲『エリーゼのために』や『交響曲第九番』を生み出したのは聴力を失って以後である。ベートーベンはまったく聞こえない状況の中で美しいメロディや壮大な交響曲を作曲したということになる。
このベートーベンだが、若い頃から凄まじい集中力で作曲に向かい、部屋の中はあまりの集中力で楽想が湧くと10分たりとも他のことがすることができずに楽譜に没頭し、身なりはまったく構わなかった。
作曲に集中するあまり、他のことがすべて疎かになった。しかし、その凄まじい集中力が、聴力を喪失しても音楽家として活動できる源泉力となった。
実はこのベートーベンの集中力は、聴力を失ってから身に付いたものではなく、少年時代から持っていたものだった。祖父も父親も音楽家だったので、音楽的な才能は持っていたのだが、それは父親の暴力的なまでの教育とベートーベンの生まれ持った才能と集中力によって徹底的に磨かれていったのだ。
あらゆる分野で集中力のある人が大勢いる。そして、世の中は「集中力」のある人の発想や行動力によって、パラダイムシフトを起こし、自らをも助けている。いかに集中力が大切かが分かる。
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生まれつき「集中しにくい性格」の子供が大量に出現する時代
「集中力」を手に入れることによって、人は多くのことを成し遂げられることが分かっている。ところが現代人は、集中力を手に入れるのがかつてないほど難しい時代に生きている。
テレビ、スマートフォン、SNS、ゲームなどの共通点は何か。それはすべて無防備に使っていると、集中力が分散されてしまうのである。集中力が必要な時に、テレビやゲームなどに引きずられ、そして何も手に付かなくなる。
気持ちが散漫になってモチベーションを失ってしまう。
集中力が続くよりも、あちこちに関心が飛ぶ方がむしろ大量情報時代に向いているのではないかと考える人も中にはいる。しかし、実際はそうではない。
現代では、化学物質のせいなのか、環境のせいなのか、ホルモン異常なのか、はっきりした原因は分かっていないのだが、生まれつき「集中しにくい性格」の子供が大量に出現している。
たとえば、ADHD(注意欠陥・多動性障害)と呼ばれる人たちはそうだ。ひとつのことに集中できない。集中できないから様々な不注意を引き起こし、衝動的になる。
きちんとイスに座って授業を受けることもできず、学級崩壊を引き起こしてしまうような重篤な症状を見せる子供も珍しくなくなっている。
こういった子供たちは昔から存在していたのだが、1980年代になって、やっとアメリカの精神科医学界が症状をまとめて世界に知られるようになった。
集中力が保てないので、じっと座ってられない。じっと考えられない。それがゆえに深く考えることができず、学力が身に付かない結果となる。しかし、ADHDはうまく治療されることによって治癒し、子供たちは「集中力」を取り戻し、それによって日常生活に落ち着きが生まれ、学力も向上する。
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集中力の欠如のために経済的にも追い込まれていく可能性が高い
現代人の多くはテレビ、スマートフォン、インターネット、SNS、ゲームなどで強制的に注意散漫な状況に追いやられていく。こうした注意散漫が続くと、いずれ自分自身の人生に大きな問題を抱えるようになる。
集中力がなくて意識があちこちに飛ぶので、目標遂行能力がなくなる。
多くの場合、何らかの目標を成し遂げるためには、それにかける時間と継続心が必要となるのだが、その継続心もまた集中力がないと生まれない。目標の達成と集中力はリンクしているからだ。
すべての人は社会で生きるために何らかの人生設計を持つ。現代社会は超高度情報化社会となっているので、自分なりの「専門性」が求められる。この専門性を身に付けるためには計画立った学習能力と、地道な継続心が必要になってくる。
それを完遂するのが集中力なのである。
子供の頃から集中力が途切れるのが常態化していると、そのまま社会に出ても、集中力の欠如のために何も達成することができず、遅かれ早かれ経済的にも追い込まれていく可能性が高い。
「あちこちに関心が向く方がむしろ大量情報時代に向いている」どころではないのである。集中力の欠如が常態化すると、結局は何も成し遂げられない。
集中力の欠如と言っても、その程度は様々だ。軽度なのか重度なのかは人によって違う。軽度であれば自分を戒めて生きることもできるが、重度になればそのブレーキすらも利かない。
集中力を高く保ち続けられる人間は天才の域に達するが、集中力の欠如が著しい人間は、社会と接点を保つことすらも難しくなってしまう。私たちはあまり集中力を重視しないが、実のところ集中力の有無によって人生は大きく変わってしまう。
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これらはすべて「集中力を高めるため」に行われるもの
集中できるのとできないのとどちらが有利なのかと言われれば、もちろん集中できる方が社会的にも有利に決まっている。この「集中力」が人間的な能力向上の重要な要素であることは、今さら分かったことではない。
日本でも瞑想や座禅がある。インドにはヨガがある。スリランカやチベットでも修行や読経が重視されている。ユダヤにもトーラ(モーセ五書)の反復復唱の文化があり、イスラムにもコーランの反復復唱の文化がある。
方法論は違ったとしても、これらはすべて集中力を高めるために行われるものだ。集中力が重要であるというのは、いにしえの昔から知れ渡っている事実なのである。
そういった意味で、集中力を途切れさせる現代社会のワナには充分に気をつける必要がある。私たちが手に入れなければならないのは「集中力」なのである。
ところで、「集中力を途切れさせるのが現代社会のワナ」ということに気付いたのであれば、それを逆手に取っていけば逆に圧倒的多数の人間を追い抜くほどの能力が手に入るという逆説にも気付く人もいるかもしれない。
つまり、多くの人が集中力を途切れさせるワナに落ちるので、自分が逆に集中力を高められる日常生活を送るように気をつけていれば、それだけで成功の確率が高まる。集中力の差が、確実に能力の差となって現れてくる。
どのような方法が自分の集中力を向上させるのかは、人それぞれ違っている。しかし、いずれにしても集中力を向上させるための努力をして、重要な課題に取り組むという姿勢が維持できるというのは成功するための大きなステップになり得る。
新型コロナウイルスによって、私たちは自宅待機・隔離・自粛を要請されている。そうであれば、家の中で何かに集中して取り組むのに良い期間であると前向きに捉えることもできる。