ある女性が「昔の日本人は良い物を長く大切に使うという精神があったかもしれませんけど、100円ショップに慣れた今の子はそうならないかもしれないです」と私に言った。100円ショップでの消費行動が、完全に日本人の精神構造を変えるのではないか、というのが彼女の意見だった。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。著書は『ボトム・オブ・ジャパン』など多数。政治・経済分野を取りあげたブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営、2019、2020、2022年、マネーボイス賞1位。 連絡先 : bllackz@gmail.com
モノは大切に使うという根源的な部分が欠ける?
興味深い話を聞いた。ある女性が「昔の日本人は良い物を長く大切に使うという精神があったかもしれませんけど、100円ショップに慣れた今の子はそうならないかもしれないです」と私に言った。
100円ショップでの消費行動が、完全に日本人の精神構造を変えるのではないか、というのが彼女の意見だった。
彼女には4歳の子供がいるのだが、まだ使えるペンやノートも関心がなくなるとすぐに捨てるので「モノは大切に使わないとダメでしょう」と諭したら、「どうして? 100円ショップで新しいのを買えばいいじゃない」と反論されたということだ。
彼女は子供とよく近所の100円ショップに行っていた。親心として「少しでも勉強に関心を持てるように」と考えて、子供がペンやノートなどの文房具を「ほしい」と言ったら、なるべく買ってあげるようにしていた。
ところが、それが仇になってしまった。「勉強する姿勢の前に、モノに興味がなくなったらゴミのように捨てる姿勢の方が先に身についてしまった」と彼女は頭を抱えるのだった。
ほとんどの大人は100円ショップで売っているものは、「安い使い捨ての消耗品」の意識があって、他のきちんとした店で買ったものとは無意識に区分けして考える。モノは大切にする姿勢はあるが、100円ショップの品物はとくに長持ちさせようと思って売っているものではない。
売る側も買う側も「これはコスト削減のために安く作られた使い捨て製品だ」と割り切って買っている。実際、こうした製品は、すぐに使えなくなったり、すぐに壊れたりすることも多い。
以前よりも品質が上がったとは言えども、しょせん「その程度のもの」である。
しかし、子供はそういう「区分け」は分からないので、100円ショップで買って使い捨てする姿勢が身につくと、すべてに対して「良い物を長く大切に使う」が分からなくなっていく。
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製造者そのものがコスト削減のために質を粗悪にする
100円ショップで育った子供たちは、やがてインターネットを使えるようになると、やはり激安のショッピングサイトで激安の商品を買うようになる。そうした製品も品質が安っぽくて粗悪である。
しかし、彼らはそれが分かっていても抵抗がない。
「興味がなくなったら、まだ使えるものでも捨てればいい。すぐに新しいものを買えばいい」という発想になる。これは「良い物を長く大切に使う」とは真逆のところにある発想でもある。
モノは大切に使わなくても100円ショップで買い換えればいい、と思うようになった子供たちはまさに、そうした粗悪品に囲まれた世界での「粗悪品に適応した消費思考」を身につけはじめている。
「100円ショップに慣れた今の子は、モノは大切に使うという根源的な部分が欠けてしまう可能性があるのではないか」と母親が懸念するのも無理もない。それは興味深い指摘でもあった。
もちろん、誰もがそうなると言っているわけでもないし、すべての子供たちがそんな傾向を持つと言っているわけでもない。100円ショップで買い物をしても、モノを大切に使おうと考える子供たちもいると思う。
しかし、質よりもコスト削減を重視された品物に慣れていった子供たちが、「使い捨て」の姿勢を知らずに身に捨てて「価値の大切さ」に気づかなくなる可能性はかなりあるのではないか。
100円ショップの製品は質が良くなったと言っても、しょせんコスト削減で極限まで質を削ってギリギリのところで成立した製品である。大人さえ、こうした製品ばかりを買っていると「どうせすぐ壊れるから使い捨てすればいい。壊れたら捨てればいい」みたいな姿勢に染まっていく。
大切に使おうと思っても、製造者そのものがコスト削減のためにどんどん質を粗悪にして「壊れたら捨ててくれ」という姿勢で提供しているので、それを「大切に使う」など言われたら逆に戸惑うだろう。
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大元の要因を辿っていけば緊縮財政に行きつく
日本社会に流通しているものがどんどん粗悪化していき、使い捨てされるものでしか構成されなくなっていくようにも見える。だから、それが行きつくと「モノを大切に使うって、なんで?」と疑問を持たれるようになっていく。
客観的に見ると、これは長い長いデフレの社会の中で起こった現象であると言えなくもない。
1990年にバブルが崩壊した頃から日本政府は緊縮財政を行うようになって、日本経済を萎縮させ続けた。
そんな中で、日本だけは実質賃金が上がらず、仕方がないから企業も商品価格を上げないでコスト削減の方に力を入れるようになる。企業経営の中で言えば、コストでもっとも大きいのは人件費である。だから人件費を削る。
それは「従業員を減らす」「従業員の賃金を下げる」という方策で実現される。
バブル崩壊以後の日本企業はどうしたのかと言えば、「正社員を減らして非正規雇用者を増やす」方法と、「日本人を雇うのをやめて外国人を連れてくる」方法の2つを使ってそれを実現したのだった。
現在、日本人の若者が貧困化し、日本社会に外国人労働者が大量に増える社会が生まれているのだが、これは大元の要因を辿っていけば、まさに日本政府の容赦ない緊縮財政に行きつくのだ。
緊縮財政によって日本は成長しなくなり、企業も非正規雇用者と外国人労働者でひたすらコスト削減し、それがますます日本人の賃金が上がらない要因となり、それがゆえに製品価格も上げられない負のデフレ・スパイラルに落ちていった。
日本政府も、景気が悪いのに税金を引き上げて国民を痛めつけるという姿勢がどうかしているのだが、それが今も止まらないのだから、国民は安物しか買うしかないし、そうすると企業もコスト削減して商品の質を落として「価値」を落としていくしかない。そういう社会になってしまった。
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「価格」よりも「価値」を重視されていた証拠
緊縮財政が継続することによって、日本人が貧しくなる。その結果、大切にする価値のない粗悪品が日本国内に増えていき、ついに「モノを大切に使う」ことの意味が分からない子供たちも出てくる。悪循環だ。
こうした社会が続くと、日本社会から大きな強みが消えていく可能性がある。
もう一度、日本文化の素晴らしさの源泉を振り返ってみたい。日本が他の国と違うのは、古来から「価値を追求して磨きをかける」部分に重きを置いており、それが文化として定着していたからだ。
それは、今でもまだ日本企業はかろうじて、その部分でなんとか優位性を保っている。日本企業が日本人を使って作った製品の品質は、尋常でないほど素晴らしい。その品質の安心感と信頼感はずば抜けていると言ってもいい。
途上国では、何かの製品を買ったら、それが本物なのかどうか、きちんと動くのかどうか、その根本的な部分から心配しなければならない。新品を買ったのに、壊れていたなんてザラにある。取り替えてもらったら、それも壊れていた、という最悪の事態さえしばしば起こる。
しかし、メイド・イン・ジャパンは、そんなことはめったにない。製品の質も素晴らしくいいし、検品も行き届いていて安心して使える。しかも、それが非常に長持ちする。「価格」よりも「価値」を重視されていた証拠でもある。
日本人のビジネスの素晴らしいところは、他人を騙したり、陥れたり、ごまかしたりして何かを売るのではないことだ。きちんと製品やサービスを作り込み、しかもそれを何度も何度も微調整を入れて改善して「良いもの」にしていく姿勢がある。
価格よりも価値を追求する。それが日本製品の特質でもある。古来から「価値を追求して磨きをかける」部分に重きを置いて、品質を磨いてきたのだ。この部分が失われるというのは、もう日本が日本でなくなるのも等しい。
ところが、この数十年のデフレによって日本人が安物しか接しないようになっていき、本来の日本の大きな強みが消えていく傾向が見えてきている。安物を使い捨てるような姿勢では、価値を追求する姿勢は生まれない。
製品の品質を劣化させていく「ステルス値上げ」みたいな懸念すべき傾向もあったりする。(安物しか買えない日本人を騙す「ステルス値上げ」の卑劣さ。弁当の上げ底ほか“負の企業努力”が日本を粗悪国家にした=鈴木傾城)
これは、非常に心配すべき出来事ではないだろうか。