資本主義者の考えている平等と、共産主義者の考えている平等と、宗教主義者の考えている平等と、封建主義者の考えている平等は、根本的に違っている。同じ平等という言葉を使っても、その捉え方根底から違う。平等という言葉を使うなら、それを分かっていなければならない。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019、2020年2連覇で『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)
生まれながらにして「差異」があり、その時点で平等ではない
左翼・リベラル・フェミニストは「平等な社会を実現する」だとか「誰もが平等で暮らせる社会を目指す」としばしば口にするのだが、本当にそれが実現するとか思っているのだろうか?
本当は誰も平等な社会が実現するとは思っていなくて、実は「今は平等ではない→今の政権が悪い→政権打倒だ」という社会の破壊が目的で平等を叫んでいるだけなのかもしれない。
人間社会は永遠に平等を実現できない。平等はあり得ない。年齢、性別、能力、体力、身長、容姿から、人種、国籍、環境、出身、身分、経済力等々、すべてに「差異」があって生まれてくるのが人間である。
生まれながらにして「差異」があるのだから、その時点で平等ではない。
しかし、別に差異があることは悪いことではない。全員が同じ容姿で同じ能力で同じ趣味だったら、こんな薄気味悪いことはない。人間と一括りで言うが、それぞれ何かが違っているから人間は面白いと言える。
ただ、あまりに個人と個人の差異が広がっていると、ある個人は生まれながらにして「不利な環境」で社会に放り出され、個人の能力がまったく発揮できないまま死んでいく人もいる。
自分の持つ能力をまったく発揮できないまま生まれて死んでいく人もいる。だから社会は、差異がある人間をうまく適合できるように平等を目指す制度を作る。世界のほとんどの社会制度は「平等」を目指すのが正しいと人々は考える。
しかし、それが曲者だ。実は平等とは「1つではない」からである。平等と言っても、いろいろあるのだ。
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封建主義も、実は平等を目指して作られた社会であったことを知れ
「平等」という概念は、慎重に取り扱わなければならない。なぜなら、ひとことで「平等」と言っても、まったく違う概念が混在しているからだ。
人間社会は、今までさまざまな制度を模索してきた。しかし、いつの時代でも基本的には「平等社会」を目指していたことがよく知られている。資本主義も、共産主義も、封建主義も、実はすべて「平等」を目指して作られた社会の仕組みである。
このように言えば、驚く人もいるかもしれない。共産主義はともかく、封建主義は「武士の子は武士、百姓の子は百姓」の社会であり、いったいこれのどこが平等なのかといぶかる人も多い。
しかし、実は「別の意味」で平等を目指していたのが封建主義だったのだ。封建主義の平等とは何だったのか。それは言ってみれば「世襲を平等にする」という概念だった。
基本的には、武士の子供は誰であっても武士階級であることが平等に保障された。百姓の子供は誰であっても百姓であることが平等に保障された。
「誰でも親の身分を引き継げる」という平等がそこにあった。その平等は、私たちの考えている平等とはいささか違っているのだが、違っていても当時はそれを「平等」と考えていた。
「何を平等にするか」の視点が違っているのだ。
左翼・リベラル・フェミニストは「平等」という言葉を多用するのだが、平等という概念が持つ多様性をまったく考慮していない可能性がある。
資本主義者の考えている平等と、共産主義者の考えている平等と、宗教主義者の考えている平等と、封建主義者の考えている平等は、根本的に違っている。同じ平等という言葉を使っても、その捉え方根底から違う。
平等という言葉を使うなら、それを分かっていなければならない。
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「何を平等にするのか」という視点がそれぞれ違っている
「平等」は定義が広すぎて、時代によっても、体制によっても、国によっても、解釈が微妙にずれる。
たとえば、子供が成長して社会に出る時、その「スタート地点を平等にしなければならない」と考える人もいる。そのために、必要な教育などは誰もが同じように受ける権利があると考える。「機会を平等にする」という考え方だ。
かと思えば、「人は能力も出身もまったく違っているのだから、絶対に格差が生まれる。だから、格差が生まれないようにすべての所有物は政府のものにして、人々が平等に生きられるようにしなければならない」と考える人もいる。
これはつまり「結果を平等にする」という考え方だ。そんな社会があるのかと驚く必要はない。共産主義とはそうした平等を目指した社会だった。
あるいは先に挙げた封建主義のように「親の職業は必ず受け継げる」という平等を目指した社会が良いと思う人もいるだろう。
他にも、信じるものや考え方を単一にして価値感を平等にするという社会を目指したものもある。宗教主義はそうなのだ。たとえば、イスラムを信仰すると、イスラム的な価値感が共有される。みんなで同じ神を信じ、価値観を平等にする。
価値感が同じだと、価値感の違いによって無用な差別がなくなる。誰もが同じ「神」を信じ、誰もが同じ「価値感」を信じ、誰もが同じ「考え」「文化」を持つことによって平等が成し遂げられるという考え方なのだ。
平等というのは、視点が違うとまったく社会も文化も違ってくる。今上げたものは、敢えて分類すると以下のようなものになるはずだ。
・機会を平等にする。(資本主義)
・結果を平等にする。(共産主義)
・世襲を平等にする。(封建主義)
・思想を平等にする。(宗教主義)
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それぞれが異なった視点で「平等」を目指している
私たちはそのどれもがまったく違う社会のように感じるのだが、よくよく見れば、それぞれが異なった視点で「平等」を目指していることが分かる。
どれもが平等を目指しているのだが、「何を平等にしたいのか」が違っているので、平等の概念が違ってしまうのだ。問題なのは、1つの視点の平等に慣れると、他のものが全部「不平等」に見えてしまうことだ。
資本主義の人々から見たら、他の3つの主義はすべて平等ではない。共産主義の人から見ても、他の3つはすべて平等ではない。他もそうだ。「何を平等にするのか」という部分が違うと、互いに相容れないのである。
どこを平等にするかという視点が違うと、それ以外の平等はすべて不平等にしか見えなくなる。しかも、人は自分の信じている主張が絶対的に正しいと心から盲信しているので、他者の目指す平等には納得もできないし、理解もできない。
さらに厄介なのは、ひとつの主義の中でも人それぞれで平等の視点が微妙にズレていて何が平等なのかは百人百様の考え方があるということだ。
そのため、ある人にとっての平等は、ある人にとっては不平等になる。逆も真なり。平等を主張すると、その平等が皮肉にも不平等を生み出すことになるのである。
信じられないかも知れないが、平等という概念は、そういった危険な相反するものを含有した言葉でもある。
だから、「平等な社会」と誰かが言ったとき、その人はどの部分で平等を訴えているのかをよく知らなければ、自分とは相容れない平等に引きずられる。
社会は「1+1=2」という単純明快な数学的なイコール(平等は英語でイコール)では成り立たない深いものがある。
こうした平等に関する概念の違いを明確に見つめた人は、結局ひとつの答えを出すしかなくなるだろう。それは「理論的に言うと平等はあり得ない」という答えだ。
左翼・リベラル・フェミニストは「平等な社会を実現する」だとか「誰もが平等で暮らせる社会を目指す」としばしば口にするのだが、こういう能天気な話を聞くと私はいつも吐き気を覚える。こういうのを押しつけることが、逆に社会を混乱させる元凶になりかねないからだ。