「弱者であれば得する」と打算が生まれ、その立場が特権階級と化す

「弱者であれば得する」と打算が生まれ、その立場が特権階級と化す
アメリカではリベラルが行き過ぎた「ポリティカル・コレクトネス」を進めていることに大きな反発が起きている。ポリティカル・コレクトネスとは、「政治的に問題のない言葉遣い、差別のない言葉遣いをしよう」というもので、一見するととても素晴らしいものに見える。

ところが、これが行き過ぎると「メリー・クリスマスは、キリスト教徒以外の人たちが疎外感を味わうので使うのはやめよう」とか、「ジングルベルは少数派の差別だから流すのはやめよう」という方向になって文化を否定する「弾圧」になる。

そして、少数民族や少数派を指し示す言葉はすべて「差別」として捉えられて、それを口にする人間は差別主義者ということにされてしまう世の中になった。

面白いのは多数派に対する攻撃は許容されていて、「メリー・クリスマスはメリー・クリスマスだ。何が悪い」というような人は「政治的に配慮がないレイシストだ」と攻撃の的になる。

これで攻撃されているのが他でもない、ドナルド・トランプ大統領である。トランプ大統領は「ポリティカル・コレクトネスの分からない差別主義者だ」と批判されているのだが、実のところトランプ大統領の姿勢に共鳴するアメリカ人も多い。

行き過ぎたポリティカル・コレクトネスに多くのアメリカ人はうんざりしている。うっかり何か言うと「差別主義者」にされて批判されるので、何も言えなくなってしまうのだ。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

 

難民や移民を批判すると、その瞬間にレイシスト?

EU(欧州連合)でも難民や移民を批判すると、その瞬間に「差別主義者、レイシスト、極右」とレッテルを貼られて社会から一斉に攻撃される状況になっていた。

メディアも、強盗や殺人やレイプの犯人が移民や難民だと、それをぼかして報じるようになった。

なぜなら、「移民がやった、難民がやった」と言うと、当の移民・難民たちが徒党を組んで「差別だ、レイシストだ、少数派に対する弾圧だ」とわめきたてて大抗議するからである。

さらに、人権団体やフェミニストもまた移民や難民と手を組んで、「この事件を報じるのは差別」と言い出すからである。

2015年の大晦日の深夜にドイツで数百人にのぼるドイツ女性が性的暴行された事件があったのだが、この事件はしばらく報道されなかったのは、そのような事情があったからだ。(ダークネス:レイプする難民たちと反移民・反難民に舵を切るヨーロッパ

なぜこの事件が明るみに出たのかというと、当の被害に遭った女性が勇気を出して次々とSNSに被害状況をアップしたからである。

実際に被害者がいるのにマスコミが報じないことに人々が騒ぎ始めると、やっとメディアは「移民たちがドイツ女性を集団で襲った」と報道した。

ところが今度は、「この報道は少数派に対する差別だ、極右のデマだ、捏造だ」と移民団体や人権団体が騒ぎはじめて、この事件を取り上げる人間は「レイシストだ」ということにされてしまった。

つまり、移民・難民が何をしてもそれを報じることは「差別」ということになって、真実をありのまま報じられなくなってしまっているのである。

多文化共生という幻想を推し進め、移民・難民を批判するのは差別と決めつけた結果、人々は「反移民・反EU」に大きく傾くようになっていき、EUは完全に機能不全に陥った。

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「弱い立場の人に何かしてあげたい」を食い物に

社会のあり方として、弱い立場の人たち、困っている人たち、差別されている人たちをきちんと守るというのは当たり前のことである。

多くの人は、社会の中で弱者の立場に追いやられてしまっている人たちを助けたいと心から考えているし、そうした人たちが他者からいじめられていたら何とかしてあげたいと思う。

ポリティカル・コレクトネスというのは、本来はとても優しい運動である。これがきちんと機能しているのであれば、誰もそれに反対しない。

移民・難民についても、国が戦乱状態になっている中で行き場を失った人たちを助けたいと考えたEUの人々の優しさはもっと評価されて然るべきであると考える。

それは「間違った動きではなかった」というのは、よく知っておく必要がある。人間が持つ美しい心から生まれてきたものだったのである。

しかし、どんなに美しい動きであっても人間の心や社会には闇(ダークネス)が隠れている。邪悪さは美しさに寄生して広がっていく。

どういうことなのか。「弱者が保護される」という現象を見て、それにあぐらをかく人間たちは「弱者になりすまし」して世話をしてもらったり、ちやほやしてもらったり、支援してもらったりするようになっていくのだ。

また、本来は自立できる機会のある弱者も「待てよ、自立するよりも弱者のままでいる方が得だ」と思うようになっていく。

さらに弱者から抜け出せない弱者も「俺は弱者様なのだから世話されて、ちやほやされて、支援されるのが当たり前だ」と思うようになっていく。

「弱者であれば得する」と打算が生まれたときに、弱者という立場が特権階級と化す。人間の「弱い立場の人に何かしてあげたい」と自然に思う美しい心を食い物にする。

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同情は、3つのタイプの悪人たちに食い物にされた?

現代社会では「弱者であれば得する」という側面がある。だから、3種類のタイプの邪悪な人間を生み出すのだ。

ひとつは、「弱者は得すると考えて、弱者ではないのに弱者になりすまして恩恵だけを要求する人間」だ。弱者のなりすまし、福祉の寄生者は、このタイプである。

もうひとつは、「努力したら弱者から抜け出せるのだが、弱者から抜け出すと恩恵や特権や権利が喪失するので、弱者からあえて抜け出さない人間」だ。

そして「弱者であることにあぐらをかき、世話しろ、言うことをきけ、俺の欲求を満たせ」と傲慢に主張する弱者である。

いつしか「一部の弱者」が弱者であることで特権意識を持つようになり、「特権を与えてもらって当然だ」「俺を攻撃するのは差別主義者だ」とゆがんだ意識を持つようになった。

そして、自分たちのやっていることを暴露されたり、恩恵を剥奪されたりしないために、声高に「自分たちを攻撃するのはレイシスト」と逆攻撃するようになった。

それだけではない。

3種類のタイプの邪悪な人間は、弱者であることの恩恵をもっと拡大させることも考える。どうするのか。「自分たちは差別されている、虐げられている、もっと保護が必要だ」と、より大きな声で叫ぶのである。

その姿勢が攻撃されると、またもや「差別だ、レイシストだ」と攻撃して恩恵と権利だけをどんどん獲得していく。

ポリティカル・コレクトネスや難民・移民に対する同情は、そうした悪人たちに食い物にされてしまっているのが今の姿であると言える。

だから今、ポリティカル・コレクトネスという名の言論弾圧が社会を変質させて、その巻き返しが起きている。

ところで、これは欧米の話をしている。日本は、果たして大丈夫だろうか?(written by 鈴木傾城)

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「弱者であれば得する」と打算が生まれたときに、弱者という立場が特権階級と化す。人間の「弱い立場の人に何かしてあげたい」と自然に思う美しい心を食い物にする。

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