相手と妥協点を見つけられなければ「関係を断つ」のが最も合理的だ

相手と妥協点を見つけられなければ「関係を断つ」のが最も合理的だ

国外に出れば、まったく文化が違い、環境が違い、言葉が違い、空気が違い、習慣が違う。つまり、日本で培った常識や考え方はまったく通用しなくなる。

たとえば、東南アジアに行けば緑茶に砂糖が入っている。あるいは、ウーロン茶にも砂糖が入っている。甘いソーセージもあれば、砂糖入りのカレーすらもある。(甘さひとつを取ってもそれぞれの国や時代で感覚が違う理由

確かに日本とはまったく食文化の基礎が違っているのだが、緑茶に砂糖を入れるのが正しいとか正しくないとか、そんな意見や議論は意味がない。そこでは違いは違いとして、受け入れるしかない。

食文化くらいなら驚くだけで罪がないが、これが時間の感覚や礼儀作法や主義主張に違いがあると、深刻な結果を招くことも珍しくない。

重要なのは、どちらが正しくてどちらが間違っているということではなく、単に「違う」ということだ。細かく見ていけば、人間というのは本当に何もかもが違っている。

その違いは自分が受容できるかどうかすらも超越してしまって、まったく違ったままそこに存在する。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019メディア『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

感受性が違っていると、真逆の意見になっていく

考えて見れば、同じ日本人でも、ひとりひとり意見が違っており、感受性も違っており、ひとつの物の見方に対して180度違う意見があったりする。

感受性が違っていれば、同じ物事を見ても、世界がまったく違って見える。たとえば、1万円を見て、それが大金と思うのか、それとも端した金だと思うのかはそれぞれ人によって違う。

大金だという感覚も、端した金だという感覚もどちらも間違っていない。時と場合とシチュエーションによって同じ人でも感覚が違う。

では、時と場合とシチュエーションを同じにしたら、みんな感覚が同じになるのかと言えば、やはりそうならない。

立場が違い、世代が違い、性別が違い、嗜好が違い、性格が違うと、同じものを見ても捉え方がまったく違ってしまう。どちらが良いとか悪いとかは関係ない。単に「違う」のである。それも180度違う。

こういった「捉え方の違い」というのは、細かく見ていけば十人十色になっていく。長年連れ添った夫婦でも、仲の良い兄弟でも、親子でも、物の見方は一様ではない。

これを逆に考えると、自分の感受性は相手と違っており、相手に合わせるというのは、ある程度は可能だとしても完全には無理であるということだ。

誰かと意見や感受性を100%合わせることは、絶対に、何があっても無理だ。ということは、人間関係においては常に「違い」が生じてしまい、ズレがずっと解消できないまま引きずることを示唆している。

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互いに「違う」から対立が生じて時には衝突する

意見の違いは必ず生じる。対立も生じる。衝突も起きる。

人間社会から対立がなくならないのは、互いに「違う」からである。感受性が違い、習慣が違い、文化が違い、歴史が違う。だから、人と人は対立し、民族と民族は対立し、国と国は対立する。

感受性が近い人、近い民族、近い国とはうまくやっていけるだろうが、そうでない場合は必ず激突する。

違いが解消できないと、互いに相手を攻撃し、憎悪が募り、最後には激しい衝突になっていく。

しかし、まったく意見や感受性が違う人間とは、話し合っても意味がないことが多い。何度話し合っても、徒労に終わる。

なぜなら、互いに「物事の捉え方」からして違っているのだ。どうやっても話が噛み合わない。

相手に自分の意見を説き伏せようと、激しい圧力を加えても、暴力で脅しても、金で懐柔しても、意見が一致することは期待できない。感受性や性格は、他人には変えられないものだからである。

結局、自分の絶対に譲れないところだけは主張し、あとは自分たちの不利にならないように合わせていくという姿勢に収斂していくのが現実的な姿勢になる。

どうしても「自分の譲れないところ」で相手と妥協点を見つけられなければ、相手と関係を断つしかない。

そうしなければ、自分が相手に折れ続けて不利になるからだ。自分が不利にならないためには、「関係を断つ」というのは合理的な選択なのである。

「関係を断つ」というのは、自分を壊さないためにはどうしても必要なことだ。決断できなければならない。

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「重視する部分」は、人によって違っている

「自分が人生において何が大切か」「自分が重視する部分はどこか」というのは、人によって驚くほど違っている。

性格が重要だという人もいれば、収入が重要だという人もいれば、容姿が重要だという人もいれば、中には家系が重要だという人もいる。

人それぞれだ。そして、価値観は驚くほど多様だ。

自分が「これが大切だと思っている」と主張したり、話したりすると、必ず「いや、そうではない」と反対する人が出てくる。生き方も考え方も違うからだ。

そう考えていくと、人間はどんなに八方美人になったとしても、「誰にも好かれるということはない」ということに気付くはずだ。

どんなに相手に礼儀を尽くしても、あるいは情熱で説いても、感性が合わなければ、好かれるどころか逆に嫌われる。説明すればするほど相手との相違が際立っていく。

水と油のように、交わらない。世の中には、コインの裏と表のように違う世界があって違う価値観があって、どうしても許容できない相手もいるのだ。

要するに、自分自身が何らかの意見を強く持っていたら、その意見に大反対する層が必ずいて対立になるということだ。

反対層に向けて激しく主張したところで、相手が理解するということは絶対にない。むしろ、主張すればするほど敵意を持たれる結果に終わる。

かといって、相手に好かれようと、自分の本意でもない意見を言ったとしても、その本意ではない意見を嫌う人がまた現れることになる。

誰にも好かれるというのは不可能なのだ。また、すべての人に自分を理解してもらうことも不可能だ。

そうであれば、どうすればいいのか。

世の中には自分とは「違う」ものが存在することを認め、自分は自分らしくしていればいいということになる。どのみち自分も変われないし相手も変えられない。それならば、自分自身に素直でいるしかない。

その結果、「違い」が埋められずに関係が切れても、それはそれで仕方がない。誰もが意見の違いによって人間関係が切れる経験をする。

しかし、中には長い波乱を乗り越えて、つながり続けられる関係もある。それこそ、大事にしなければならないものだ。自然に振る舞って、そのような長い関係を保てることができた関係は、とても希有なものだからだ。(written by 鈴木傾城)

自分自身が何らかの意見を強く持っていたら、その意見に大反対する層が必ずいて対立になるということだ。反対層に向けて激しく主張したところで、相手が理解するということは絶対にない。むしろ、主張すればするほど敵意を持たれる結果に終わる。

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