世の中には、普通に生きているのに悪い方にどんどん転がっていく人がいる。一方で窮地に落ちてもいつの間にか挽回してして普通に戻っていく人もいる。
この差は、考え方や決断に合理性があるかどうかで決まる。
今の社会を生きるには、非論理的なものを信じたり関わったりするよりも、ただ単に合理的である方が大きなメリットがある。
はっきり言って、合理的な判断をする人の方が得する。なぜなら、現代は社会全体が論理的な思考や考え方や行動を求めており、それが現代文明の方向性となっているからである。
現代は凄まじいまでの情報化社会である。フェイクも広告も混じって判断を誤らせる。その中から正しいものを選択するには合理的であった方がいい。
しかし、世の中には、合理的ではない考え方、非論理的なもの、非現実的な解釈をするものが大きな人気を得て、それらが熱狂的に信じられていたりする。
また、証明しようがないもの、あるいは証明すること自体が意味のない概念が信じられていたり、人々の関心を捉えていたりする。それはなぜなのか。(鈴木傾城)
「非論理的、非現実的、非合理的」に支配されるな
実は「非論理的なもの、非現実的なもの、意味のない概念」というのは、突飛であったり滑稽であったりするので現代人の娯楽になり得る。だから人々が虜になる。
それは楽しいし、面白いのだ。
しかし娯楽はしょせん娯楽である。娯楽はそれ以上でもそれ以下でもない。単なる暇つぶしだ。
暇つぶしだから、それは面白ければ面白いほど良いわけで、だから非論理的なものはますます非論理的なものになり、非現実的なものはますます非現実的になっていく。
そういったものに関わり続けていると、考え方の志向や方向性が非現実に引きずられて、あまり良い影響にならない。
「合理的ではないもの」が自分の考え方を支配するようになっていくと、大事なときにきちんとした判断ができなくなってしまいやすい。
普段から合理的で現実的な考え方をする人は、大事なときもスムーズに合理的で現実的な判断ができる。
しかし、普段から非合理的、非現実的な世界に浸っていると、大事な判断をしなければならないときも非現実的な方向に引きずられていく。つまり、思考の癖が悪い方向に出てしまう。
だから、どんどん悪い方向に転がる人がいる一方で、うまく落とし穴をかわせる人も出てくるのだ。
現実的でもなければ合理的でもないものには、深く関わるべきではない。「みんながそれを信じている」と言っても、そんなことは何の慰めにもならない。
世の中には、非合理的だが奇妙なまでに人々の心を捉える奇妙な考え方や世界がたくさんある。妙なカルト集団の荒唐無稽な世界観や、奇妙な予言のようなものがそうだ。
自分の関わっているものが、そうした世界に通じるものであるのであれば、そこから離れて反対側の席に移る方が「合理的」なのである。
現実的で合理的である方が現代社会で収穫を得られやすいのだから、わざわざそうではないものに引きずられる方がどうかしている。こうしたものからは離れた方が絶対に良い。
支離滅裂な生き方をすれば、支離滅裂な結果が返る
人は何を信じてもいい。だから「合理的ではないもの」を心の底から思い切り信じても、それは個人の自由であり他人に押しつけない限りは問題ではない。
しかし現代の社会ではそれが自分の生活に大きなダメージを与えるものになりかねないので、そこから離れた方が間違いなく良い結果が得られる。
「合理的であれば得する」というのであれば、その逆もまた真実だからだ。
「合理的ではないもの」は客観性を見失わせる元になる。客観性が見失われると、間違いが間違いと気付かない。間違いに気付かないと破滅が待っている。
しかし合理的でないと、破滅を止めることができなくなる。
軌道修正をするためには現実的かつ合理的であることが望まれるのだが、現実を見ないで合理的な判断もできないのであれば、人生で得られるものは何もない。
合理的ではない考え方を持ち、非合理に動くというのは、何もかもが行き当たりばったりになるということである。生き方自体を支離滅裂なものにしてしまう。
論理が支配している社会で、自分ひとりが非論理的であれば、ダメージを受けるのは社会ではなく自分だ。支離滅裂な生き方をすれば、支離滅裂な結果しか返ってこない。
ごく普通に合理的に生きるだけで、人生はかなり違ったものになる。この正しい道に戻れない限り、人生はいつまで経っても好転できない。
人間はいつでも正しい選択ができるとは限らない。しかし、「正しい選択」をする回数が増える考え方をしていると、そうでないよりも利益がある。
つまり、合理的な考え方を意識して取り入れ、そうでないものを排除していくのは、最終的には大きな選択ミスをしなくなって安定した人生を手に入れる元になる。
「合理的ではないもの」を意識して消していく
「合理的ではないもの」は、どこまでも飛躍が許されるので、思考が歪み、行動が歪む。そうなると、当然だが社会適応能力も歪んでいきやすい。
そうした歪みは最終的に自分と社会のズレを生み出して、それが自分の人生を苦しめる元凶となる。
「合理的ではないもの」が生み出した飛躍は、思い込みに支えられているわけで、それが深まると「どんどん悪い状態になるのに引き返せない」状態となる。
現実に立ち返り、現代社会から利益を得るには、ひとつひとつ自分の中から「合理的ではないもの」を消していくのが一番いい。ごく普通に「どちらが正しいのか」を考えて、正しい方を取ればいい。
そうすることによって得られるメリットは、計り知れないものがあるのだから、別にためらうようなことではない。それは「悪くない話」だ。
客観性を取り戻して的確な判断ができるようになり、支離滅裂な生き方を軌道修正するかとができるようになる。
正しい判断をする確率が自ずと増えるので、それだけで生きやすくなる。歪んでいた思考や行動がまっすぐになる。その結果、社会適応能力も増す。
妄想に耽ることがなくなり、社会性を取り戻すことができるようになっていく。
合理的になることは、ただそれを求めるだけで、利益が増えるのだ。正しい決断が増えるので、自分の人生に大きな利得を呼び込めるだけでなく、まわりにも信頼されるようになる。
どこまで自分が論理的に、現実的に、合理的になれるのかは、その人の能力や気質によるが、合理的になろうと努力して損することは決してない。
方向性が間違っていなければ、無意識に悪い結果を避けることになっていく。合理的であればそれだけで自動的にメリットが得られるのである。(written by 鈴木傾城)