
資格を取っても、他にその資格保持者が大量にいたら仕事が回ってこない。仕事はそんなにあるわけではないので小さなパイの奪い合いになる。そうすると仕事の単価は安くなり、あぶれた人は無職になる。「溢れるほどたくさんあるものは価値がなくなる」のだ。(鈴木傾城)
プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)
作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019メディア『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)
「溢れるほどたくさんあるものは価値がなくなる」
日本人は資格を取るのが好きなのだが、誰もが持っている資格を取ったら食えるようになるわけではない。
資格を取っても、他にその資格保持者が大量にいたら仕事が回ってこない。仕事はそんなにあるわけではないので小さなパイの奪い合いになる。そうすると仕事の単価は安くなり、あぶれた人は無職になる。
「溢れるほどたくさんあるものは価値がなくなる」
誰でもできる仕事の単価が安いのも、補充がいくらでもきくからだ。どんなに賃金を安くしても、それをやる人がいる。だから単価はじりじりと安くなっていく。これは、すべての人間が知っておかなければならない不変の事実だ。
「溢れるほどたくさんあるもの」に人生を賭けているのであれば、その時点で苦闘の道を歩むことになる。競争相手が無限に存在すると自分の価値が保てないのである。
たくさんあると無価値に向かっていく。急激に価値を喪失してしまう。
これは生産に関わっている人間であれば、本能的に理解できる現象だ。市場に同じ製品が溢れれば差別化が難しくなり、あとはコスト削減で勝負するしかなくなる。
コスト勝負になるものを「コモディティ」と呼ぶのだが、生きる上で重要なのは、常に自分の仕事や自分自身がコモディティ化していないかどうかを確認する作業である。
かつては価値があった職業でも、長い年月の中でコモディティ化してしまうこともある。
【金融・経済・投資】鈴木傾城が発行する「ダークネス・メルマガ編」はこちら(初月無料)
値下げして他より優位に立とうとして豊作貧乏になる
コスト削減は常に正しい生き残りに見える。しかし、同業他社も必死でコスト削減に励むので、結局は最後に「合成の誤謬」に見舞われる。価格がどんどん下がり、商品が丸ごと安物してしまう。
よく知られているのは農作物だろう。
その年にミカンやリンゴやコメが取れすぎると、生産者は誰もが売れ残りを避けるために、値下げして他より優位に立とうとする。他も同じことを考える。すると、最後には必ず投げ売りになる。
そうなると生産者のすべてが儲からなくなってしまう。「豊作貧乏」とは、そのような理屈から生まれた言葉だ。
これは職業でも言える。
誰もがサラリーマンになりたがるのが日本社会の特徴だ。しかし、サラリーマンが増えれば増えるほど、この職業に就く人材が豊作貧乏になっていく。人材が「捨てるほどいる」ので、消耗品扱いになってしまうのである。
結局そうなると最後は価格競争(賃金低下)に巻き込まれる。今、まさにその労働価値の低下が起きている。誰もが「サラリーマンになる」という選択をするので、その部分が豊作貧乏となって使い捨てになった。
これは技術でも言える。
ある技術を習得しても、その技術を知っている人間が大量に生まれたら、その技術は価値がなくなる。差別化ができなくなってしまい、買い叩かれ、やがて賃金低下に見舞われる。
つまり「溢れるほど大量にあるもの」に関わると、差別化が難しくなり、価格を下げるしかなくなる。価格を下げ続けると無価値に収斂していく。その時点で将来が危うくなる。
いったい、どうすればいいのか。仕事でも技術でも、大量に供給されて差別化ができなくなり、存在が二束三文になりそうな場所から逃れるしかない。自分がそうなっていないか、そういう場所に定住していないかを検証する必要がある。
【ここでしか読めない!】『鈴木傾城の「ダークネス」メルマガ編』のバックナンバーの購入はこちらから。
社会的流行や社会的熱狂にも簡単に巻き込まれる
そもそも、人はなぜ「溢れるほど大量にあって差別化が難しい」ところに、知らずして関わってしまうのか。なぜ他人と同じことをして自分自身までも無価値に収斂させてしまうのか。
それは、人は社会的な動物だからだ。社会的であるということは、社会に協調して生きているということでもある。
自分が社会に協調することによって、社会に受け入れてもらっている。だから、人は往々にして協調しすぎてしまい、その結果他人と同じになってしまうのだ。
他人と同じになると、社会的流行や社会的熱狂にも簡単に巻き込まれる。
社会がひとつの方向に向かって走り出して何かが大流行して拡散していくと、みんなが訳も分からずに熱狂する。それを見ている人は「バスに乗り遅れるな」という心境に陥ってしまう。
熱狂とは、伝染するものなのだ。「みんなやっている、みんな乗っている、みんな熱狂している」時に、自分だけ醒めた目で見つめることができる人は、そうザラにいない。
たとえば、金融市場ではしばしばバブルが発生する。意味もなく、根拠もなく、理由もなく、どんどん値を上げていく金融商品がある。
そうすると、理由は分からなくても「上がっているから買う」「誰もが買っているから上がる」という熱狂が発生する。そして価格は雲の上まで到達するのである。
実際、多くの人はそれを分かっているが、分かっていながらそこから逃れることができないでいる。なぜなら、ひとつの方向に向かって社会が動き出していると、どうしても無批判にそれに乗ってしまうからだ。
熱狂が冷めてから初めて人は「あれは下らないものだった」と批評できる。しかし、熱狂の最中にはそれが気がつかない。
ダークネスの電子書籍版!『邪悪な世界の落とし穴: 無防備に生きていると社会が仕掛けたワナに落ちる=鈴木傾城』
決して同調しないようにする訓練が必要
一番いいのは、「溢れるほどたくさんあるものは差別化が難しくなって価値がなくなる」ことを認識してそこから離れることなのだが、それをするには訓練がいる。
無意識に流されて生きていると、どうしても巻き込まれてしまう。だから、そうならないように「訓練」しなければならないのだ。
・流行に巻き込まれない訓練。
・一歩引いて考える訓練。
・群衆に飲まれない訓練。
・同調しない訓練。
・バブルに乗らない訓練。
・他人を無防備に信じない訓練。
何でもかんでも他人と反対の意見を持つべきだとか、他人の反対のことをすべきだということではない。そんなことをしたら、社会から排除される。重要でないところは常識的な判断で従ってもいい。
しかし、「人が押し寄せて差別化ができなくなりつつある」と気付いたのであれば、決して同調しないようにする訓練が必要なのだ。
差別化が難しくなっているものは、いつ暴落するのかは分からないが必ず暴落する。だから、関わっているものがそうだと気付いたのであれば、そこから離れなければならないのだ。
他人が熱狂している時にこそ離れる。しかし、それは他人の判断よりも自分の判断が重要だと思わないとできない。簡単なようで難しい。バブルを見て乗らない勇気、バブルに乗っていると気付いた時は降りる勇気が必要なのだ。
自分を見失わず、冷静な目で世の中を見つめることができれば、それに流されることはない。むやみに同調することもなければ、雰囲気に飲まれてしまうこともない。他人を盲目的に信じることもない。
訓練によって社会の同調圧力から自分を引き離さないとならないのだ。そうしなければ自分が社会に踊らされ消費され、価値が摩耗してしまうと気がついた時には手遅れになっている。
しかし、多くの人は自ら大勢がひしめき合って二束三文になっている場所に飛び込んでいく。「誰もがやっている」という熱狂が、大勢の中のひとりであることに居心地良く感じる。
「たくさんあると、急激に価値を失う」という法則は必ずどこかで発令されるのだ。自分が「その中のひとつ」にならないために、目を覚まさなければならない。
