死刑制度は正しい。この制度はそのまま継続し迅速に執行するのが正しいあり方

死刑制度は正しい。この制度はそのまま継続し迅速に執行するのが正しいあり方

「死刑は野蛮であり残酷であるから廃止すべきだ」という声もある。これは視点がおかしい。残虐な凶悪犯はそれ相応の罪を犯したわけだから、むしろ加害者の存在そのものが野蛮であり、残酷なのだ。きちんと法に則って死刑に処せられるというのは秩序に則っている。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。まぐまぐ大賞2019メディア『マネーボイス賞』1位。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。(連絡先:bllackz@gmail.com)

加害者に、その犯した罪を死によって償わせる

2022年11月29日。確定死刑囚3人が「絞首刑による死刑執行は残虐な刑罰を禁じる憲法などに違反する」として、国を相手取って死刑執行の差し止めを求める訴訟を起こしている。そして、日本国内ではこれに賛同する声もある。

しかし、死刑制度はそのまま継続して良い。

殺されることがなければ様々な未来が拓けていたかもしれない人の命を無残に奪い、残された人に悲嘆と苦痛に追いやった悪意ある加害者に、その犯した罪を死によって償わせることは別におかしなことではない。

「死刑は野蛮であり残酷であるから廃止すべきだ」という声も年々大きなものになっているのだが、これは視点がおかしいのだ。残虐な凶悪犯はそれ相応の罪を犯したのである。

むしろ加害者の存在そのものが野蛮であり、残酷なのだ。

「死刑は人道的に許せない」という話も弁護士はしばしば口にするが、人道的に許せないことをしたのが加害者であるということを忘れては困る。人道的ではないのは加害者の方なのである。

「死刑は法の名のもとに行われる殺人だ」という主張もされるのだが、だから素晴らしいのだ。法に則らない殺人はしばしば途上国で起きており、これをモブ・ジャスティスと呼ぶ。

生きたまま集団に石を投げられ、生きたまま火を付けられて殺されるモブ・ジャスティスに比較すると、きちんと法に則って死刑に処せられるというのは秩序に則っている。

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死刑に犯罪を抑止する効果があるか否かは疑わしい?

「死刑は人間の尊厳を否定している」とも言われる。しかし、これも視点がおかしい。人間の尊厳を否定して非道なことを行ったのが加害者であり、被害者の尊厳のもとに死刑は執行されるからである。

「裁判に誤判の可能性があるから死刑は廃止すべきだ」という意見もある。これは、死刑が間違っているのではなく、誤判を招く裁判制度が間違っている。

責めるべきは誤判を生み出す裁判のあり方であり、死刑のあり方ではない。

むしろ、「完全に100%加害者が死刑に値する残虐行為を行った」というのが裁判で明らかにされた場合は、死刑は当然のことであり、逆に粛々と執行しなければならない。

「死刑に犯罪を抑止する効果があるか否かは疑わしい」という人もいる。これもおかしい意見だ。

死刑に抑止効果があるかどうかの前に、加害者は被害者の人生を残虐に奪いとったという事実がある。その事実をもとに死刑を執行するという目的が第一なのだ。

同類の犯罪の抑止は、副次的な効果である。

加害者に死でもって罪を償わせ、それで抑止効果もあれば、二重に素晴らしいことなのだ。逆に抑止効果がなかったとしてもそれは特に問題にならない。

抑止効果がないといのであれば、それは逆に抑止できるような工夫が今の死刑に足りていないということである。

死刑を公開して死をもって償うというのはどういうことなのかを見せるとか、あるいは死刑によって死亡した人間の遺体を公開する等の抑止につながる努力が必要だと言う意見を持つ人もいる。

いかに死刑が効果的に抑止力を持つか、公開処刑も含めて議論すべきである。公開処刑は別にタブーでも何でもない。

死刑が抑止につながらないというのであれば、いっそのこと公開処刑をして抑止につながるかどうかのデータを取るべきだ。

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更生するかも? いや、更生しないかもしれない

「犯人には、生涯罪を償わせるべきである」という意見もある。あるいは「死刑にして何が償われるのか?」と説く人もいる。これも詭弁でしかない。

逆に「生きて何が償われるのか?」と問わなければならない。「被害者や遺族に被害弁済させる」と言っても、「殺してすみませんでした」という手紙を遺族に出すくらいでしかない。

しかも、その手紙の文面でさえ、本心で書いているのかどうかも分かったものではない。刑務所で長く生きたからと言って最後は聖人君子になるわけではないのだ。「生きていても償われない」のである。

つまり、「犯人には、生涯罪を償わせるべきである」というのは一生刑務所に放り込んでおくという意味でしかない。それを償いというのであれば、被害者や遺族はたまらない。償いになっていないからである。

被害者は残虐な目に遭って死んでいった。それならば、刑務所で無駄飯を食ってだらだら生きるのが償いではなくて、死刑台に上ってもらうのが償いであって当然だ。

「どんなに凶悪な犯罪者であっても更生の可能性はある」という人もいる。もちろん、その可能性はゼロではない。

しかし、人間の性格や気質や本質はそう簡単に変わらないというのは「三つ子の魂百まで」という諺があるのを見ても分かる通りだ。「更生しない可能性も大きい」のである。

いや、そもそも他人の命を残虐に奪っておいてから「更生しました」と言われて「そうですか、よかったですね」という話になるだろうか。命を奪われて帰ってこない被害者や、遺族の立場はどうなるのか。

凶悪な犯罪事件を犯して翌日に更生したら罪が消えるわけではない。「罪を犯した」という事実は依然として残り、加害者はそれによって相応の罪と罰を負わなければならない。

それが法治国家のあり方である。犯罪後に更生すべきなのではなく、犯罪の前に更生しておくべきものなのだ。

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死刑を宣告される人間は、善良な人間ではないのだ

合理的に考えると、「死刑制度はそのまま継続して良い」という考え方になる。死刑制度は、凶悪犯罪に立ち向かうための選択肢としては絶対に残すべきである。

残虐極まりない事件の場合、死刑以外の選択肢は考えられない場合がある。なぜ、正義の側がわざわざ有効な選択肢を捨てる必要があるのか。

仮に死刑制度が消えて絶対的終身刑も取り入れられず、無期懲役で加害者が出所すると、再び凶悪事件を起こす可能性がある。人間はそう簡単に変わらないのだから、出所する時までに更生しているとは限らないのだ。

全世界で凶悪極まりない武装テロ組織や凶悪ドラッグ・カルテルが台頭している。仮に加害者が凶悪犯罪組織の一員の場合、終身刑にしたとしてもそれで一件落着にならない。

どういうことか。

収監された仲間を助けるためにテロ組織が人質事件を起こして「仲間を保釈しないと人質を殺す」というような一連の日本赤軍のような事件が起きる可能性が非常に高い。

そうやって、凶悪犯罪者が再び野に放たれることはゼロではないのだ。

そう考えると、死刑制度はきちんと機能させておき、死刑の執行は迅速に行った方が問題を起こさないと分かる。そもそも、犯罪者を刑務所で養うにも金がかかるわけで、死刑の執行は費用面から見ても合理的な選択である。

刑務所内の治安の面からも、凶悪な人間を物理的に減らしておくというのは正しい選択となる。

あまりにもドラッグ・カルテルの暴力が行き過ぎて、死刑制度を復活させようとしても、そのために動いている判事や裁判官がことごとく暗殺されて誰も何も言えなくなったメキシコのような国もある。

忘れてはいけないのは、死刑を宣告される人間は、私たちが普通に考えている「善良な人間」とは180度かけ離れたところにある人間だということだ。

すでに「人間を人間と思わないような事件を起こした」人間なのである。いつの時代でもそんな冷血な人間たちが存在する。死刑制度はそのためにある。

『元刑務官が明かす死刑のすべて(坂本 敏夫)』

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