オリジナルと、それに似た模倣は「進んでいる方向」がまったく違っている

オリジナルと、それに似た模倣は「進んでいる方向」がまったく違っている

人間は、遠くから見るとみんな同じように見える。しかし、ひとりひとりを個別に見ると、みんな性格も考え方も趣味も嗜好も違い「同じ」であることは絶対にないということに気付く。

人はそれぞれ違った人生を送ってきている。長い人生を、違った家族、違った肉体、違った環境で育ち、その中でその人に合った考え方や人生観や生き方や習慣を身につけていく。

誰かと同じになろうと思っても、完全模倣は絶対に不可能である。

自分ではいかに他人を模倣できたと考えていても、生きてきた人生が違っているので、真似はオリジナルと同一になることは決してない。上辺(うわべ)だけは真似ることはできる。しかし、内面はまったく違うので同じになりきれない。

他の誰かになりたいと思っても、それは不可能なのである。

尊敬する人や、手本にしたい人がいたとしても、ずっと自分を殺して模倣している限り、オリジナルを超えることはできない。模倣はあくまでも模倣でしかない。

そして、オリジナルと模倣は「進んでいる方向」がまったく違っていることに注意する必要がある。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」、投資をテーマにしたブログ「フルインベスト」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

守破離に基づかない模倣

何か新しいことを覚えるためには「基本」を学ぶ必要がある。その基本とは「正しくできる方法論を真似る」というものだ。この正しい方法論では型(かた)と呼ばれることもある。

日本には「守破離」という考え方があり、これは何かを学ぶ上で非常に重要視される。正しく物事を行うようになるためには先生に「型」を学び、それを自分の身体の一部になるまで真似る。それが「守破離」の「守」の部分だ。

それができるようになると、少しずつ自分らしさを加味して型から抜け出していく。それが「破」の部分である。そして、最後には自分独自の個性を発揮して完全に独創の世界に入る。それが「離」となる。

真似が必ずしも悪いことではないというのは「学ぶ」ためには最初に「真似る」必要があるからである。しかし、守破離に基づかず、目標が単なる「模倣」を目指すだけのものであるならば、それは単なる「パクリ」「モノマネ」でしかない。

パクリやモノマネがオリジナルに肉薄すると、この2つはどちらでも同じに見えるかもしれない。しかし、長い目で見ると、この2つはまったく違う。いったい何が違うのか。

オリジナルというのは、自分らしさを伸ばすものだ。自分の納得した考え方をして、自分の環境や、自分の肉体や、自分の性格や、自分の気質に合った中で、長所を育んでいく。

パクリやモノマネは逆だ。自分らしさを「殺す」ものだ。オリジナルが自分と合わないところがあっても、自分を殺して無理やりそれに合わせる。「他人に似せるために自分を殺す」のがパクリやモノマネの正体である。

誰かの何かをパクったりモノマネしたりしていても、それはオリジナルとは違うものなのだから無理があるのだ。

誰かの生き方や個性を真似をして、誰かになりきろうとしても、そうすればするほど自分を殺すことになるのだから、そんなもので人生を乗り切ろうとしても、どこかで破綻してしまうだけである。

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それ自体が自分で自分を殺す

そうやって他人の考え方や人生観や生き方をなぞったところで再現性がない上に、それを目指すことによって、自分らしさをどんどん殺していくことになる。

自分の人生で、他人のパクリ・モノマネばかりしていると、それ自体が自分で自分を殺すことになるのだ。パクリ・モノマネは「自分を殺して」他人に合わせることだから、自分で自分を殺すというのは比喩ではない。

真似するためには自分の個性を抑えなければ真似が成立しない。自分の個性を抑えるというのは、自分自身を出さないということでもある。それはすなわち「自分を殺す」ことでもある。

誰かの考え方・人生観・生き方・個性・表現を完全コピーしようと必死になるほど、自分の個性を必死に殺すことにつながる。

時には、自分の個性を殺すことによって、有益な何かが手に入ることもあるかもしれない。しかし、それは自分の個性を伸ばそうとすることによって生まれるものに比べると、ひどく小粒で頼りなく壊れやすい。

目指す方向に無理があるからだ。自分を殺すのだから、本能が抵抗する。

逆に、自分らしさを持っていて、その自分らしさを追及する生き方をする人は、素直に伸びやすい。目指す方向に無理がないからだ。自分を活かすのだから、本能が受け入れる。

自分の人生をきちんと成立させるためのオリジナルな考え方、人生観、生き方は、結局のところ、自分の性格、気質、個性を鑑みながら、自分自身で作り上げていくしかないのである。

スーパーで野菜を選ぶように選べるものではない。育てるしかないのだ。しかし、多くの人は不思議なことにそこに気付かず、ただ誰かの考え方、人生観、生き方をモノマネしようと必死になっていることである。

なぜなのか。もちろん、それには理由がある。

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「自分を殺す」ための作業をするな

真似はたやすい。なぜなら、すでにあるものを何も考えずにコピーするだけだからだ。オリジナルが生み出された経緯や工夫や努力や試行錯誤は一切せず、右から左の機械作業でできる。

たとえば、客観的に見ると誰がどう見てもサラリーマンに向いていない性格の人がいる。個性的で独創的で一匹狼で我が道を突き進みたい人は、サラリーマンとして生きるのは辛いはずだ。

しかし、「みんなサラリーマンとして生きる。真似しないといけない」と言われると、サラリーマンに向いていないはずの人までサラリーマンの生き方を選ぶ。

他人の生き方を真似ただけである。真似を続ける努力が強いられるが、それはすなわち毎日毎日「自分を殺す」ための作業をするということにつながる。

中には心底サラリーマンが合っている人もいる。しかし、中には明らかにサラリーマン向きではない人もいる。彼らは無理して自分を殺しているので、やがて自分を見失う。自分で自分を殺してきたのだから、自分を見失って当然だ。

サラリーマンという生き方は、世界がグローバル化したことによって、もう賞味期限が切れており、これからは成り立たない生き方になる可能性がある。

当座しのぎの生活はできるかもしれないが、右肩上がりも年功序列も期待できなくなり、要らなくなったら捨てられるので、それで長い人生を持たせるのは難しくなっている。

それであれば、もう今から「オリジナルな考え方、人生観、生き方」を育んでいき、それによって自分自身を育む独自路線に向かうべきではないか。

自分自身を棚卸しして、何が自分に合っているのかを模索し、その中で生きていけるようにする。

自分の独自路線が世間に認められるようになると、それがどんな特異なものであっても、その特異性によって生きていける可能性が開ける。自分を殺すのではなく、自分を活かす生き方に転換するのは、早ければ早いほどいい。(written by 鈴木傾城)

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誰かの生き方や個性を真似をして、誰かになりきろうとしても、そうすればするほど自分を殺すことになるのだから、そんなもので人生を乗り切ろうとしても、どこかで破綻してしまうだけである。

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