もちろん、誰でもその逆を望まないのは確かだ。しかし、こうした「美辞麗句」を自分だけ信じていたらどういう結果になるのかという大事な視点を忘れてしまいがちだ。
世界は憎悪で満ち溢れている。人間の歴史は戦争の歴史である。たとえば、戦後70年で戦争をしなかった国は国連加盟193カ国のうち8カ国しかない。(ダークネス:戦後70年で96%の国が戦争を経験した。次の戦争は必ず来る)
友好はもちろん存在するが、憎悪も暴力も確実に存在するのである。つまり、人間の歴史は「人類みな兄弟」みたいな美辞麗句で括れるほどお花畑の世界で成り立っていない。激しい生存競争がそこで繰り広げられている。
だから、せめてもの理想として美辞麗句の数々を掲げて、そこに向かって邁進しようと考える。しかし、対立と衝突と暴力が渦巻く世界の中で、自分ひとりが美辞麗句を信じて人畜無害になると、自分だけがカモになるのが現実だ。
「人の善意を信じている」という人であっても、家には鍵を掛けるし貴重品はしっかりと隠す。なぜなら「信じている」という言葉とは裏腹に、現実は「信じられない人間がいる」と考えているからだ。
つまり、美辞麗句を信じるとトラブルに落ちるのが現実のリアルな姿なのである。(鈴木傾城)
「友好・親睦」の美辞麗句は悪人どものワナとなる
詐欺師は常に友好的に近づいてくる。実はこの「友達のフリ」をして馴れ馴れしく近寄って来るというのは、国家間でも見られる。
邪悪な国家は裏の意図を隠しながら、自分の都合の良い時だけ「友好を、親睦を」と言ってそれを押し付けてくる。この友好の裏の意図とは何か。
「友好を結んだのだから金を貸せ」
「友好を結んだのだから恵んでくれ」
「友好を結んだのだから俺の言うことを聞け」
そのような意図がある。つまり、それは「友好」という美しい言葉を隠れ蓑のした「偽善」なのである。
なぜ、友好という言葉を隠れ蓑にするのか。それは、友好という言葉は、それ自体は「誰もが求めている美しい言葉」であり、友好を求めているのに断ったら、断った方が悪人にされるという効用があるからだ。
「友好関係を結ぼう」と言われて「嫌だ」と言ったら、嫌だと言った方が悪く見える。
「友好関係を結ぼう」と言った人間が詐欺師や犯罪者であったら、拒絶するのは当たり前のことだ。
しかし「友好関係を結ぼう」という言葉は美しいので、美しい言葉を拒絶するというのは、それ自体が罪深いように見えてしまうのだ。
だから、裏の意図がある国家であればあるほど、こういった美しい言葉を多用して、無理やり関係を強要する。
「友好を、親睦を」というのは、裏の意図がある者にとっては、ゆすり・たかりをするための第一歩だ。美辞麗句を盾にするのだから、まさに美辞麗句を盾にしたワナである。
日本人は美辞麗句に弱い。しかし、こんなものを真に受けるから「お人好し」と言われる。
「暴力反対」の美辞麗句も悪人どものワナとなる
「暴力反対・戦争反対」というのも、悪人がよく仕掛けるワナであるのはよく知られている。これは、悪人が自分に言い聞かせる言葉ではない。
自分は棚に上げて、相手から暴力を奪うためのテクニックなのである。
間違えてはいけない。裏の意図がある者が「暴力反対・戦争反対」と言うときは、自分がそれを守るために言っているのではないのだ。自分は暴力と戦争の用意をしっかりする。
美辞麗句は相手に言い聞かせ、相手の武力や戦意を美辞麗句で消し去って、攻撃しやすいようにするために言っている。
これを国家間で言うと、自分は武器・弾薬・軍隊を持ちながら、相手(カモ)には徹底的な「暴力反対」「戦争反対」を押し付けて弱らせる工作活動になる。
カモにする相手の国民が引っ掛かって、本当に「暴力反対」「戦争反対」と思うようになったら、そこで侵略すればいい。
そうすれば、相手は「暴力反対」なのだから、暴力に屈服するしかないという状況になる。
日本には工作員が大量に入り込んで「戦争反対・憲法第九条を守れ」と叫んでいるが、まさに美辞麗句で日本から防衛力と戦意を消して侵略しやすくするためのワナである。
「暴力反対」「戦争反対」という美しい言葉も、悪人が使えば、単なるワナでしかない。
「友好をカモに強要する」
「戦争反対をカモに強要する」
美辞麗句を盾にするワナの本質が見えてきただろうか? このテクニックは、実際に日本に向けて使われていることを自覚して欲しい。
「人類みな兄弟」も悪人どものワナとなる
世の中は、対立と暴力と陰謀と策略に満ち溢れている。
自分がいくら友好的な人間であり、いくら暴力が嫌いであっても、ワナは相手が仕掛けてくる。相手から仕掛けられると、きれい事は言ってられない。
「人類みな兄弟」のような美辞麗句は、理想として持っていなければ世の中が良くならないのも確かだ。だから、それを掲げる人は崇高である。
しかし、逆に悪人もまた美辞麗句を掲げるという現実を日本人は知るべきだ。悪人であればあるほど、美辞麗句を高らかに歌い上げて、それをカモにする人間や国に押し付ける。
「人類みな兄弟」というのも、美しい理想であるのは確かだ。しかし、悪人がそれを使うと、突如として「相手をカモにする言葉」になってしまう。その真意はこうだ。
「人類はみんな兄弟だ。だから、お前は俺に逆らうなよ」
「人類はみんな兄弟だ。だから、俺の面倒を見ろ」
「人類はみんな兄弟だ。だから、金を貸せ」
悪人が「人類みな兄弟」などと宗教家のようなことを言い出すと、「俺が何をしても逆らうな、見捨てるな、最後まで尽くせ」ということなのである。
骨までしゃぶり尽くし、噛みついて離れず、相手に自分を見捨てることに対して罪悪感を与えるために「人類みな兄弟」みたいな美辞麗句を言って自分を見捨てさせないようにする。
裏の意図が見抜けないと、美辞麗句はワナになる。だから美辞麗句を言う人間は「胡散臭い」のであり、それを頭から信用すると馬鹿を見ることになるのだ。
日本は世界でも類を見ないほど治安の良い国であり、人が信用できる国なのだが、その感覚で一歩外に出るとたちまちのうちに美辞麗句のワナに落ちる。
善人は美辞麗句を、自分に言い聞かせる。
悪人は美辞麗句を、カモに言い聞かせる。
「差別反対」も「平等」も悪人どものワナとなる
「差別反対」「差別は許せない」「差別撤廃」というのも、それを言われたら大抵の人は「いや、違う」とは言えない。
相手が「差別撤廃」と言っているのに、私たちがそれを認めなければ、私たちは「差別主義者」「レイシスト」にされてしまう。誰でも差別主義者だと思われたくない。
だから「差別するな」と言われれば、確かにその通りだと言うしかない。しかし、ここに相手をカモにする大きなワナがある。
例の如く悪人が「差別をするな」と言い出したら、それは自分に対して言い聞かせているのではなく、相手に言い聞かせるものなのである。
自分は差別しても、カモにする相手には「差別するな」と言って、自分の身分や権利をゴリ押しする。自分を棚に上げて、相手を屈服させることができる。それが美辞麗句を盾にしたワナである。
「平等な社会を」というのも、危険な美辞麗句である。悪人がこれを言うと、「俺がどんなに卑劣なことをしても、平等に扱え」という意味になる。
「平等な社会」という建て前を押し付けて相手に平等概念を守らせることができれば、それを盾に自分は好き勝手に振る舞うことが可能になる。
似たようなものに、「優しい社会を」というものもある。これは「誰にでも優しくするように」という美辞麗句を相手に押し付けるものだが、裏の意味は「誰でも、俺に優しくするように」というものだ。
なぜ、悪人であればあるほど、美辞麗句を好むのか分かっただろうか。本来は、こういった美辞麗句は「真っ当な人間しか使ってはいけない言葉」なのだ。
真っ当ではない人間が使うと「偽善」になる。そして悪人がそれを意図的に使い出すと、これらはすべて善意の人をワナにはめる手口となっていく。
世の中には、こういったものを駆使する悪人が山ほどいることや、そういった偽善を駆使する国家もあることを、私たち日本人は絶対に知っておかないとならないのだ。
知らないと、私たちがカモにされるだけだ。(written by 鈴木傾城)
〓 この記事のツイッター投稿はこちらです
善人は美辞麗句を、自分に言い聞かせる。
悪人は美辞麗句を、カモに言い聞かせる。日本人よ。妙な美辞麗句を押しつけられたらワナだと気付け。https://t.co/C05o0XiXQM— 鈴木傾城 (@keiseisuzuki) 2018年3月22日
ツイッターで鈴木傾城をフォローして頂くと、執筆・更新状況などが総合的に分かります。